第三章 孑然(ケツゼン) 15 優梨
辛くも二回戦を勝ち抜いた滄女チームには、喜びとともに疲労が見られていた。無理もない。朝早くに名古屋を出発して東京入りし、午前中からスタジオで熱戦を繰り広げ、午後、夕方と敗者復活戦も含めて計三回戦ってきたのだ。慣れない環境に緊張し、また並みいる強豪校に囲まれながら、難問、難題に立ち向かうべく集中力を持続させてきたのだ。
ホテルは、テレビ局から近い葛西臨海公園付近のビジネスホテルだ。泊まるだけとは言っても、質素すぎず、外観や内装は綺麗である。ロビーで運営スタッフから明日の集合時間等を聞いて、本日は解散になった。近くのレストランで簡単に食事を済ませ、ホテルに戻り各自部屋に向かった。
荷物は、
実はこの荷物も、多くの参加者にとって無用の長物となる。六十チーム中、三回戦に進めなかった五十二チームは日帰りとなる。遠方からの参加者でも前泊も含めて一泊二日である。
しかし、決勝まで残るとなると、一週間程度の宿泊になるという。理由は明白。なんと決勝の舞台は海外で行うらしいのだ。その場所(国)は明かされていない。しかし、優梨には想像がついていた。共催である『NOUVELLE CHAUSSURES社』がフランスの車メーカーであるので、フランスだろう。ここにはパリの町並みに世界遺産など、決勝の舞台となりそうなスポットはいろいろある。治安的にも比較的安心だ。もっとも優梨はフランスに行ったことはないが、行ってみたい願望があり、そのような希望的観測に直結しているかもしれない。
優梨は、海外渡航経験があるので良かったが、なければこのためにわざわざパスポートを作らないといけないわけで、特に影浦には少し申し訳ないと思っている。話によると、児童養護施設の援助があった様子だが、もともと金銭的な援助を嫌う影浦は、ご不満そうだった。あくまで施設に借りた分を返すつもりであるらしい。やはり杓子定規な男だ。
部屋は、チームごとに分けられるが、ビジネスホテルに五人部屋は現実的ではないため、二人、三人と分けられた。当然、滄女は男女混合のため、女子二人と男子三人で自動的に部屋割りが決まる。札幌螢雪や蘇芳薬科は、女子一人と男子四人のチームなので、三部屋借りているのだろうか。
過去の大会を見ると、宿泊中にもクイズ企画を立てていることがあったが、今回はそのようなことはないらしい。テレビカメラが入ることはない。それはとてもありがたい。疲労を癒すことに専念できそうだ。
通常の学校や予備校の試験や模試の十倍は疲れている。三回戦の試合の詳細も明かされていないし、作戦の立てようがない。取りあえず、大人しく寝ることにしよう。
しかし、一緒にいる陽花は、まだ興奮のため寝付けない様子だ。
「優梨、このチームならひょっとしていけるかもしれないと思ったけど、まさか本当に勝ち進めるとはね!」
同感だ。ただ、とりわけ優梨はこの大会に強い気持ちで臨んでいる。
「そうね。本当、みんなには感謝しているよ」優梨はつとめて静かな口調で答えた。
「でも、実はね……。
「ん? 何?」
「あ、いやいやいや。何でもないよ。気にしないで」
「桃原さん?」
「ごめん、ほ、本当に何でもないよ。明日も早いよね? じゃあ、おやすみ!」
ちょっと慌てたような態度で、陽花は強引に話を打ち切って、寝てしまった。
優梨は、陽花が何を言おうとしたか何となく分かっている。千里はあのゲームで陽花に助け舟を出したのだ。
これの意味するところはただ一つ。千里は、優梨と対峙して、打ち負かしたいということだ。つまり千里の目的は、『滄女チーム』に勝つことではなくて、大城優梨に勝つこと。あの二年前の夏休み前のあのときみたいに。
どこまで執拗なのかと、怒りや恐怖を超えて呆れている。ここまで来たら、いっそのこと勝利を譲ってあげた方が、面倒事に巻き込まれなくて済むような気もしたが、
ただ、千里は強い。間違いなく二年前の彼女より力を付けているはずだ。直接対決して勝てる保証はないだろう。
一回戦での、開始二問連続正解での二回戦進出の快挙もさることながら、二回戦の国名を昇順にソートする問題でも自分のチームが三回戦進出が確実なポジションをキープしつつ、かつ滄女が脱落しないような絶妙なアシストをしていた。
これは、少なくても千里は正確な国名の順番が分かっていたことに加え、各チームの得点を頭の中で計算していたことになる。あの短時間で、かつ極限の集中を要する舞台で、知力、計算力、さらには陽花や他の解答者の心理分析を行っていないとなし得ない高度なテクニックだ。優梨ですらこれを意図的に行うことは困難、というか不可能に近い。
これも、優梨と直接対決して、衆人環視の中で打ち負かしたいという欲望がそうさせているのなら、鬼気迫るものがある。
ただ優梨は、繰り返しになるが、優勝することが目的なので、相手が誰であっても、最善を尽くすに尽きる。三回戦以降どんな問題が出てくるか分からないが、多少の駆け引きは必要とは言え、千里であっても他のチームであってもやることは変わらない。とどのつまり、千里の存在を意識しすぎないことが肝要だ。
ところで、優梨には気になることがある。一回戦の五十問の早押し問題で、解答の法則性が見受けられた。陽花にメモしてもらったものを、先ほどコンビニでコピーをさせてもらったのだが、これは一体何か意味しているのだろうか。この法則性が知力甲子園で活用されている様子はない。
せっかく寝ようとしたのに、結局千里や大会のことを考えてしまい、寝付けなくなってしまった。
陽花のスマートフォンがブーブー震えている。着信だろうか。しかし、いつの間にか陽花は眠りについており、起きる気配がない。
呆れていると振動が停止し、今度は優梨のスマートフォンが震えた。ディスプレイを覗いてみる。風岡からだ。陽花に電話をかけたものの繋がらず、優梨にかけたのだろうが、こんな時間に一体何だろう。
「こんな時間にごめん。五郎ちゃん、そっちに来てないか?」
何を言っているのだろうか。こっちには誰も来ていない。そもそもあの日比野が女部屋に来るとは考えにくい。
「来てないよ。何で?」
「部屋に荷物を置いてから、五郎ちゃん、部屋を出て行って、それっきりなんだ」
「え? でも、銅海の平野くんたちといるんじゃない?」
ひょっとしたら、同級生たちとこれまでの健闘を称え合っている可能性もある。
「でも、さっき廊下で平野とすれ違って聞いてみたら、部屋には来てないって言われた」
「そうなの?」
「まぁ、あいつもちょっと変わってて、単独行動が好きなところもあって、せっかく東京に来たんだから、公園でも散歩してるかもしれんな」
「そ、そう……」イメージだが、日比野はあまり散歩しそうな
「高校三年生だしあいつはしっかりしてるから、迷子になってるとかそういうことはないだろうけど、ひょっとしてそっちにいるんじゃないかと気になってな。心配させてごめん」
「う、うん」
「そんじゃ、おやすみ」
そう言って、一方的に電話を切られてしまった。
優梨も、日比野に限ってどこかで道に迷っているという心配はしていないが、一体どこに行っているのだろうか。
風岡の電話で、さらに眠れなくなってしまった。
仕方ないので、一回戦での陽花のメモのコピーを眺めてみることにした。
そこには五十個のアルファベットが並べられていた。
UGUGCACUGAUAUGUGCGGCCGAGCGAAUGAUCCUCGCAUCUGAACUGAA
解答の法則は、ずばり遺伝子だ。すべての解答の頭文字が、RNA(リボ核酸)を構成する四つの核酸塩基、つまりアデニンのA、グアニンのG、シトシンのC、ウラシルのUとなっている。
しかし、四つのアルファベットのいずれかを解答の頭文字にしていることは分かったが、それが何を意味しているのかまでは分からない。そもそも一体全体何でこんな細工を施したのだろうか。しかも、一般的なDNA(デオキシリボ核酸)ではなくて、敢えてRNAにしているところも気になる。DNAの場合は、構成される塩基はウラシルの代わりにチミン、つまり頭文字でいうとTになる。
そのとき優梨は閃いた。なぜRNAなのか。この四つのアルファベットを多用する表を思い出した。コドン表だ。自分が生物を選択していたことに感謝した。
生体内でタンパク質が合成される場合、『転写』という過程を経る。DNAが『転写』されることにより
優梨はコドン表を眺めて、対応するアミノ酸を充ててみた。
Cys(システイン)-Ala(アラニン)-Leu(ロイシン)-Ile(イソロイシン)-Cys(システイン)-Ala(アラニン)-Ala(アラニン)-Glu(グルタミン酸)-Arg(アルギニン)-Met(メチオニン)-Ile(イソロイシン)-Leu(ロイシン)-Ala(アラニン)-Ser(セリン)-Glu(グルタミン酸)-Leu(ロイシン)
何のことかさっぱり分からない。しかも、三つ組塩基といわれるように、三つの塩基で一つのアミノ酸を充てるので、解答が五十個だと二個塩基が余る。
しばらく考えたが埒が明かない。明日も早いことなので、ひとまず今日のところは寝ることにして電気を消した。
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