第一章 蹶起(ケッキ)  9 影浦

 児童養護施設『しろとり学園』には、入所児童が使えるインターネット用のパソコンはあるが、さすがに一人につき一台あるというわけではないので、長時間の利用は向かない。

 そこで影浦は風岡にお願いし、家に上がらせてもらうことにした。

 もちろん、優梨にお願いすることだってできる。優梨は自分専用の薄型のノートパソコンを所持している。Wi-Fiやテザリング環境でいつだって動画の閲覧は可能だ。

 しかしながら、今日は優梨は予備校の特別講義があるとのことだ。優梨がそうなら半自動的に陽花もそうだ。デートを除いて、あの二人のスケジュールは概ね同じである。

 さらには、これは風岡の依頼でもあった。影浦と対策を練りたいというのだ。どうやら、陽花はあの性格だから、風岡の無知っぷりに呆れられたりして、その度に少し惨めな想いをするのだそう。他方、影浦は心優しいからその点の心配がいらないそうである。


 学校が終わったあと、さっそく風岡の家に行くことにした。影浦は一度『しろとり学園』に帰園してから、自転車を拝借して向かった。

 と言うのも、風岡の家と『しろとり学園』は比較的近い。地下鉄の最寄りの駅はめいじょうせんてんちょう駅と名港線めいこうせん六番ろくばんちょう駅で異なるのだが、自転車で簡単に移動できる程度の距離である。信号のタイミングが良ければ電車で行くよりも早いような気がするし、何より電車賃の節約だ。影浦にとって贅沢は禁物である。


 最寄りの伝馬町駅で待ち合わせた。駅から比較的近い十階建てのマンションの七階が風岡の家だ。エレベーターで上がり家に入る。

「おじゃまします」

 待っていましたと言わんばかりに、奥から風岡の母が出てきた。

「影浦瑛です。はじめまして」

「はいはい、こんにちは。影浦くんね! 悠がいつもお世話になってます。さ、どうぞどうぞ、遠慮なくゆっくりしていってね!」

 明朗闊達な風岡を育ててきたことが思わず頷けるような、いかにも優しくて面倒見の良さそうな人物に見える。案の定、どうやら影浦が家に来ることを告げると、風岡の母は快諾してくれたらしい。風岡がそうであるように風岡の母もまた児童養護施設の高校生であっても分け隔てなく接してくれる温かい心の持ち主だと思う。施設で食事は出るというのに、夕食まで用意してくれると言う。非常にありがたい。

 風岡はごく普通の狭い家だと言っていたが、謙遜だろう。影浦にとっては充分広いと感じる。自分専用の部屋があれば、狭かろうが築古ちくふるだろうが素晴らしい。

「じゃあ、パソコンを持ってくるから部屋で待っててくれ」

 風岡の部屋は六畳程度の洋室だ。可もなく不可もなく、男子高校生の部屋という感じがする。音楽が好きだというだけあって、棚にはCDが並んでいる。またスポーツ雑誌も多い。もともと彼はラグビー部員で高校一年生の夏までは運動に精を出していたのだ。今は帰宅部だが、それでも筋トレ用なのか、鉄アレイや腹筋ローラー、プッシュアップバーなどが置かれていた。この日のためか、掃除されていて綺麗だ。ただ、学習机の上には、教科書や参考書類が何冊か積まれていた。以前は持ち運びが面倒だからと言って学校の机に終始置きっぱなしになっていたものだ。

 しばらくして風岡が、パソコンと二人分のジュースを持って来た。

「さっそく頼むよ」



「だめだ。これでは勝てない」

 影浦は渋い表情でノートパソコンのディスプレイに映る動画を観ながら呟いた。『知力甲子園』ではお決まりの、早押しクイズのシーンである。

「影浦でも無理か?」風岡は問う。

「だって、『Q. 元素の周期表の原子番号1番は水素ですが』のところでボタンを押して、その先を類推して、原子番号111番のレントゲニウムと答えて正解してるんだよ。彼らは、問題の先の先を読んでいるんだ。それも、かなり確からしい確率で出題の法則というか、傾向を知り尽くしている」

「そ、そうかもしれないな」

「だから、問題の答えを知るだけでは足りない。問題自体を知らないといけない」

「そりゃ、無茶な話だ……」

 確かに無茶な話だ。しかし、同じ高校生が正答している以上、諦める理由にはならなかった。

「一度、名門校に必勝法を訊いてみた方が良いかもしれない」

「ええ!?」

「そうだな。やっぱり東大に多く輩出している、いちばん優秀な『叡成えいせい高校』に訊いてみるか……」

 叡成高校とは、言わずと知れた東京にある全国屈指の男子校の進学校だ。その偏差値は77ともいわれ、日本で最優秀の学校だと聞く。知力甲子園においても決勝の常連で優勝経験もあり、クイズ研究会も発足されているようだ。ちょうど観ていた動画の決勝戦でも優勝を飾っている。まさに申し分ない。

「そこまでするのか?」

「やれることはやった方が良い。じゃないとこれは勝てない。きっと何か、クイズに勝つための戦略があるはずだよ」

「すごいな」

「とりあえず一筆書いてみよう。叡成高校クイズ研究会宛てに」

便箋びんせんいるか」

「あ、じゃあお言葉に甘えて……」

 そう言うと、影浦はすらすらとボールペンで手紙を書いた。

「一応、他の三人にも言っておいた方が良いかな」

「そうだな。これはチームプレイだから、みんなにLINEラインしておくよ」

「ありがとう。で、手紙の差出人なんだけど、風岡くんでも良いかな?」

「え? 何でさ?」風岡は驚いた表情を見せる。

「だって、児童養護施設の名前で出したら、悪戯いたずらかと思われかねないでしょ? かと言って、模試で順位一桁に食い込む優梨の名前じゃ、逆に警戒されてしまうかもしれないし」

「そうかもしれんが……。か、考えすぎじゃないか?」

「叡成高校くらい優秀な学校の生徒は、どんな些細なことでも気になったことはすべて調べ尽くすと思うよ。クイズ研究会ならなおさらね。それが彼らの原動力と言わんばかりに」

「そうか。でもこれで出られなかったら何だか恥ずかしいな」

「大丈夫だよ。少なくとも知力で言えば、運に見放されなければ、このチームは絶対全国大会に出られるレベルだと思っている。早押しの経験と戦略が不足しているだけなんだ」

「そ、そうか」影浦が説得すると、風岡は一応納得してくれたようだ。


 ここ最近の優梨の知識欲は凄まじい。その知識欲は純粋なものではなく、影浦を大学に進学させる手段に必要だからなので、不純と言えば不純だが、結果的に彼女の脳内には凡人には不可能なレベルの膨大なデータバンクが構築されつつあるのは事実だ。表現は悪いが、知識欲に取り憑かれたモンスターのようだ。天才が本気になるとこうなるのか、と影浦自身が恐れおののくほどに。

 どこか優梨を中心とするこのチームに確固たる力を感じている。備わりつつあるのだ。影浦の洞察力をしっかりと後押しし、風岡を納得させるくらいの力が……。

 洞察力という言葉を思い浮かべて、不意にある女子生徒の顔が思い浮かんだ。止社高校の元同級生にしてクラスメイト、学校と彼女の通っていた予備校で騒動を起こした桃原千里だ。

 彼女は元気にしているだろうか。不意にそんなことを考えてしまった。

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