第一章 蹶起(ケッキ)  7 日比野

 帰宅した日比野はやはり影浦という男が気になっていた。

「どこで会ったんかな……」と部屋で独りごちる。

 二度のミーティングを終えて、影浦に以前どこかで会ったことがある、という微かな記憶は確信に近くなってきていた。あの顔は間違いなく見覚えがある。隣には風岡もいたような気がする。そう遠い昔ではないが、最近でもない。しかし、口調や表情がどこか合致しない。姿、形はそのままに、中の人間が入れ替わったようだ。

 元来日比野は、疑問をその場で解決しないと気が済まない性分だ。それが学習意欲へと繋がり、これまでの成績を保ち続けている所以ゆえんでもあると思っている。


 そのとき、日比野の携帯電話が鳴る。もともと筋金入りの電話不精にしてメール無精であるので、スマートフォンの着信音を聞くことは少ない。誰かと思いディスプレイを見ると驚くほど思いがけない名前を見た。

 しばらく音沙汰のない人物。その名前にどこか懐かしさすら感じた。

「もしもし?」低いトーンで応答する。日比野はもともとこういう口調だ。

『あ、日比野くん? 久しぶりだね! 元気?』

「ああ」相手の気勢の高さとは対照的に、日比野は言葉短く返す。

『それなら何よりだね。ところでさ──?』

 さっそく電話の相手は本題を切り出そうとした。

「何だ?」

『──もしかして知力甲子園に出たりとかしないかな?』

「……出るが、何でそれを?」日比野のトーンは相変わらず低いが、これでも充分驚いていた。

『いや、何となくだよ』

 何という勘の鋭い人だ。偶然なのか必然なのか分からないが、必然だとしたらこの第六感は人智を超えている。洞察力の良さは知ってはいたが、ここまでくると畏怖さえ感じる。

「今はどこに住んでるんだ?」

 日比野は電話の相手と最後にコンタクトを取ったのは、高校一年生の夏だ。鮮烈な印象を日比野たちに植え付けたその人物は、二学期になって忽然と姿を消した。

『沖縄だよ』

 なるほど。彼女の母は沖縄だっていうことを口走っていたのを思い出した。母の実家の方に引っ越したということか。

「そっちは出るのかい?」

『いや、迷ってるんだけど。例えば大城さんって出たりしない?』

 ぐいぐいと核心をつく発言を繰り返してくる。

「……」日比野はどう答えるべきか迷った。しかし、相手は容赦しなかった。

『その反応は出るってことだね。ひょっとして一緒に出るとかかな? 今年から他校の生徒と一緒にチームを組んでも良いもんね』

「ええ?」

 日比野は嘘をつくことは苦手だが、それ以上に電話の相手は日比野の心を確実に読んでくる。日比野はますます困惑する。

『もし、大城さんが出場するなら教えてね! そのときは私もめちゃめちゃ勉強して必ず全国大会に出るんだから!』

 電話の相手の口調は明るいが、どこか強い意志を感じた。彼女の目標は全国大会に出ることではない。全国制覇なのだ。もっといえば、大城優梨と直接対決に勝利した上に待つ全国制覇なのだ。

「出る」日比野は静かに答えた。もう包み隠すことはできなかった。

『本当に?』

「間違いない。なぜなら俺も同じチームメイトだからだ」

『やっぱりね! ひょっとして、影浦くんも?』

「し、知っているのか!?」驚きの声を上げた。

『うん。まあね』

 そう言えば、この電話の相手は、名古屋に住んでいたときは止社高校と言っていた。同じ高校の同級生なら知っていてもおかしくはないか。しかしながら、たかだか四か月ほどでその名を彼女に鮮明に植え付けている影浦とはどういう人物だ。

「影浦くんってどんな人物だ」つい日比野は問うてみた。

 そして、一言短く返ってきた。

『天才だよ。正真正銘の』

「本当か? 大城さんもそんなことを言っていたが」

『彼が本気出したら、私も大城さんも勝てないかも』

 彼女にもそこまで言わしめる影浦という人物に少なからず畏怖いふを抱いた。優梨は影浦の恋人だと聞いているので、いくらかのバイアスがかけられていると思ったが、第三者が同じように評することで、一段としんぴょうせいを増す。そして同時にもう一つの疑問を抱いた。

「ところで、何で大城さんと影浦くんが知り合いだってことを知っているんだ」

 優梨と影浦が知り合ったのは、高校二年生だと聞いている。電話の相手が知っているはずがない。

『だって、大城さんは有名人だし、何となくそんな気がしたんだよ』

「そっか……」と日比野は言うものの、分かるような分からないような説明である。どこからか彼女に情報が漏れているのではないかと思えるほどの洞察力だ、と思えるほどだ。

『とにかく、五人のうち三人が、大城さん、日比野くん、影浦くんである時点で、ほぼ間違いなく全国大会に行けるよ。そうとう運に見放されない限りね。私も本気出さなきゃ。私の周り、そこまで賢い人があまりいないんだよね』

「あれから、ずっと勉強しているのか?」

『もちろんだよ! 私は大城さんがライバルだもの。ほら、『クラーク予備校』の全国模試の結果見たことない?』

 全国模試は、日比野も受けている。『クラーク予備校』という大手予備校が主催しているのだが、日比野だけでなく、優梨、陽花も受けている。大学受験を本格的に視野に入れている学生は、高校二年生のうちからそれを受けているのだ。

 たまたま近くにあった、前回の全国模試の総合順位を確認してみる。そこには成績優秀者の名前がカタカナで書かれている。しかし、ちらっと見た感じ彼女の名前は見当たらない。

「名前、載っているのか?」

『あ、ひょっとして昔の名前で探してるかな? 私ね、実は名前の呼び名が変わったんだよ。いろいろあってさ。『トウバルセンリ』になったんだよ』

「『トウバルセンリ』? どういうことだ?」と言いながら、沖縄では『桃原』を『トウバル』と読ませることが多いことに気付く。『さと』は『センリ』か。なぜ、呼び名が変わったか気になりながら、順位の欄を確認してみる。そして名前を見つけた。「あ、あった! えっ? 全国二十位!」とうとう日比野の声は大きくなる。

『ああ、これは前回のやつだね』と事も無げに電話の相手は言う。

 なお、この試験では日比野は九十位前後だ。それでも充分讃えられるべき好成績である。ちなみに優梨は成績七位。この日は調子が悪かったのことだ。それでも九十位の日比野に比べたら凄まじい成績である。もちろん、電話の相手である『桃原ももはら』改め『桃原とうばる』もだ。

「そこに影浦くんの名前もあるのか?」

『たぶんないよ。彼、予備校とか通ってないはずだもん。児童養護施設だから、高校で受ける授業がすべてだよ』

 日比野は再三再四にわたり驚愕した。影浦という人物は、満足な教育を享受できない環境にいるというのか。

「なるほど。理解した」

『そういうことで、何としても知力甲子園に出てね! 全国ネットで、私が大城さんを負かしてやるんだから、それまでは誰にも負けないように、しっかり準備しといてね。日比野くんも。私も本気出すんだから!』

「……ああ」

『じゃあ、全国大会でね! バイバーイ』

 そう言うと、彼女は電話を切った。


桃原ももはらさんも出るのか……」再び日比野は、独り言を呟いていた。

 何となくだが大会が荒れる予感がしてならなかった。それは高校一年生のときのいさかいから予想される。

 正直に桃原に情報を与えてしまったことを少し後悔したが、もう引き下がれない。勝負の世界なのでどちらかが勝ち、どちらかが負ける。穏便に白黒付ける方法を模索しないといけないのかと思うと、日比野は気が重くなった。

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