エピソード4
目が醒めると、景色が一変していた。上も下も闇に包まれた異空間。街の喧騒から遠く離れて、まるで世界から隔離されたかのような場所。けれども、よく見渡すとすぐそこに人々の往来が乏しくも窺える。どうやら僕はどこかの路地裏に寝転がっていたらしい。
「義成くん!」
鈴の音が鳴り響く。僕の傍らに、白い女性が跪いていた。
「セルシア、さん……」
「良かった、目が醒めてホントに良かった……」
涙ながらに呟いて、微かに項垂れるセルシアさん。潤んだ瞳が赤々として綺麗だ。
彼女の姿を見て、事の経緯を察することが出来た。腹部にはしこりのような違和感がある。やがて、セルシアさんから今までの経緯を語ってもらった。
僕が刺された後、クリスさんの制止を振り払って、セルシアさんが僕を抱えて移動してくれたらしい。人目の付かない場所として路地裏まで僕を運び、“応急処置”を施してくれた。
「食人鬼の血はね、特殊な力を持っているの。元々は食人鬼の長寿性を保つ為の力なんだけどね、他の生命に与えると治癒を早めてくれるの。とは言っても、あくまで応急処置だからしばらくは安静にした方が良いわ」
セルシアさんの左腕に白い布が巻かれていた。彼女の足元には鈍く光るナイフが。それから血に塗れた自分のシャツを捲ると、縦に伸びた傷痕がくっきりと左脇腹に刻まれていた。
「ごめんね。ワタシの勝手な事情に巻き込むばかりか、こんな酷い怪我までさせちゃって」
再度、セルシアさんは頭を下げる。
「セルシアさんの所為じゃないですよ。あれは僕が勝手に飛び出して、不幸にもお腹を怪我してしまっただけの事故ですから。セルシアさんも、クリスティーナさんも悪くないです」
そう。あれは僕が自分の意思で行った事だ。それは誰かの所為にしたりせず、自分の責任として自分自身でけじめを付けたい。
僕の答えにどう思ったのか、セルシアさんは弱々しく微笑む。「そっか」と一言呟くと、手を伸ばして僕の頭を撫でる。掌の感触がなんともこそばゆい。
「君が目を醒ましてくれてホントに良かった。でも、一つだけ分からない事があるの。どうして君は、ワタシが人間じゃないと知って尚、ワタシを庇ってくれたの?」
セルシアさんの問いに、僕は思案する。幾許かの沈黙が流れた後、その思いを告げる。
「今日一日のデー……トを通してセルシアさんが悪い人、悪い鬼さんじゃないと思ったんです。あんなにも美味しそうにチーズケーキを食べて、あんなにも楽しそうに買い物に興じて、そんな鬼さんがどうしても悪者だとは思えなかったんです。いや、思いたくなかったんです。
クリスティーナさんは食人鬼と人間は相容れないと言ってました。けど、僕とセルシアさんは今日だけで随分と仲良くなる事が出来たと思います。セルシアさんが人間を食べるとか、未だに実感が持てないし、出来ればそんな姿は見たくないと思います。
でも、それは結局僕のエゴでしかないんだって気付きました。僕が牛や豚、鶏なんかを食べるのと同じように、セルシアさんも人間を食べる、食べないと生きていけない。そう考えると、僕の勝手な押し付けなんてどうしようもないんです。
人間と食人鬼だって解り合う事が出来るはず。少なくとも僕とセルシアさんは解り合えるんだって気付けましたから」
言いたい事は全て出し切った。ふぅ、と押し出すように息が零れる。
セルシアさんは静かに聞いてくれていた。しかし、唇を噛んで何か堪えているようだった。やがて、
「そんなの、気休めにしかならない」
そう言い放った矢先、セルシアさんは流れる速さで僕の目前まで迫ってきた。それから、やにわに僕の左腕を掴むと、そこへ開いた口を近付ける。生温かい吐息が肌に触れる。
「君とワタシしか居ないこの場でなら、今すぐにでも君を食べられる……食べたいと思ってる存在が、目の前に居るんだよ? 食べられたらそこで命が終わるんだよ? それでも、ワタシ達は解り合えるって言えるの」
途絶えそうなほどに震えた声。セルシアさんは顔を上げる。そこに在った顔は酷い苦痛に耐え悶えているようだった。
僕は何も言わず、ただ彼女の顔を見つめる。彼女は僕から目を逸らす。
「ワタシのこと、買い被ってるよ……。ワタシは君の思ってるようないいヒトじゃないんだよ。人を食べなくちゃ生きていけない、化け物なんだよ……」
それきり、言葉は完全に絶えた。後方から小さなさざめきが聞こえるばかり。
「それじゃ、どうして今まで僕の事は食べなかったんですか? 食べようと思えば、力ずくで人けの無い所へ連れていって食べる事だって出来たはずなのに」
「そ、それは……」
言葉に詰まるセルシアさん。ここぞとばかりに、僕はもう一押しする。
「やっぱり貴女はいいヒトですよ。好き好んで人間を食す化け物じゃない。僕達の事を対等な生命と見てくれてる。そんなヒトが、一方的に滅せられていいだなんて思えません」
そう言ってから、彼女の中でどれだけ思考が巡らされたことか。それまで目を背けていたセルシアさんは、再び僕の顔を見てくれた。
「凄いね。義成くんは天性のお人好しだよ。こんな化け物でさえ受け入れてくれるんだから」
呆れたように溜息を吐く。けれども、その態度から険を感じない。
「そんな君にだったら、本当のワタシを教えてあげられるかな」
そう言って柔らかく笑うと、真っ直ぐに僕を見つめる。その視線があまりにも真っ直ぐで、思わず照れ臭くなってしまう。顔が熱くなってる気がするけど、赤面してはいないだろうか。
「ワタシは食人鬼なのは言うまでもない事なんだけど、本当は一度も人間を食べた事が無いの。正確には、生きてる人間を食べた経験が無い。自殺の名所って噂されてるような所へ行って、よく食事を済ませてた。
他の鬼と同じように食人衝動はあるけど、ワタシは人間を食べる事に抵抗があったの。ワタシ達と同じ姿形の人間達を貪り喰らう事がどうしても不快で仕方が無かった。
変な事を言ってるのは自分でも判ってる。周りの鬼からも散々言われてきた。それでも、ワタシは人間をただの食糧なんかじゃなくて、同じ世界を共にする隣人として見たいと思ってる。そう云う点では、ワタシと義成くんは似た者同士なのかもしれないね、エヘヘ」
昼かたぶりに見たセルシアさんの無邪気な笑顔。それに、彼女と僕が似た者同士だと言う言葉がとても嬉しかった。
そっか。やっぱりセルシアさんは優しくて良い“ヒト”だ。
「本当のセルシアさんを知る事が出来て、嬉しいです」
「ここだけの話、こんな事を話すのは滅多にしないんだからね。ディープな秘密を共有したワタシと義成くんは、もっと親密な仲になったのでしたー」
そうやっておちゃらけるセルシアさんに、思わず吹いて笑う。呼応するようにセルシアさんも声を上げて笑う。ここにきてようやく張り詰めた糸が緩んだように感じた。
ところが、それから間も無く。
「さてと、それじゃあそろそろお別れだね。もっと君と一緒に居たいけど、いつクリスが追いかけてくるかも判らないし、これ以上君を危険な目に遭わせたくない」
告げられたのは別れの宣告。僕と彼女が共に居られる時間の終末。
一緒に居たいのは僕も同じだ。せっかくお互いの事を解り合う事が出来たと云うのに、まだまだ彼女と話していたいのに。それは叶わない。
「また……会えますか?」
そう発したのは無意識の内だった。僕の思いを凝縮した、彼女へ向けるたった一言。その一言を絞り出すのが精一杯だった。
彼女の反応を窺う。ハッと驚いて、嬉しそうにはにかんで、でも困ったように目を逸らして。やがて口を開く。
「ええ。きっとまた会えるわ。クリスとのゴタゴタが片付いて一段落着いたら、また会いましょう。ワタシ、義成くんの事好きになっちゃったし」
添えるようにして笑う、その輝かしさ。白い花が咲き開くかのような愛しさ。それは反則級だった。
「あれ? なんだか義成くんの顔がみるみるうちに赤くなってるけど、大丈夫?」
「べ、別に問題ありません! 大丈夫です!」
夜も更けた街の往来へ出る。そして、僕とセルシアさんは互いの道へ赴くのだった。
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