第壱拾五節
朝が来て雀の声で目を覚ますと、布団にもぐったままの月星丸が騒いでいた。
「お腹すいたー、腹減ったー、さっぱりしたはまぐりの吸い物か、塩鮭の入った粥が食べたーい」
俺はごそごそと布団から這い出す。
「梅干しの粥なら作ってやろう」
「いやだ。梅干しの粥を食うくらいなら、卵粥がいい。溶いた卵を入れた塩粥にしてくれ」
かまどに火をつけ、研いだ米を炊き始める。
「卵はない。ほしいなら、また明日にでも買ってやる」
「なんで明日なんだよ。万屋にいけば卵ぐらいおいてあるだろ。今すぐ行って買って来て!」
俺は衝立を動かし、月星丸の姿がこちらから見えないように立て直す。
「万屋へはいかぬ。家を留守にするなと言われたばかりだ」
その言葉に、月星丸はぐっと黙った。
俺は炊きあがった米に梅干しを落としてそこに湯を注ぐ。
「具合はどうだ」
「だいぶよくなった」
本当は女と向かい合って飯を食うぐらいなら、この間にも衝立を立てておきたいくらいだが、さすがにそれは悪いと思うので我慢している。
月星丸が箸を置いた。
「今日はなにするの?」
「笠を編む。それだけだ」
「俺は?」
「寝てろ」
月星丸に見られているのがどうにも気になるので、衝立の影になるようにしているのに、こいつは何度もそれを動かして俺の姿を見ようとする。
その度に元に戻すのが、だんだんと面倒になってきた。
いい加減にしろと言ってもやめる気がないので、俺が月星丸に背を向ける。
ガラリと扉が開いて、入って来たのはお萩だった。
「お月ちゃんの具合はどうだい?」
お萩は無遠慮に上がり込んで来る。
「なんだか私のせいで迷惑をかけちゃったみたいでね、申し訳なかったね。これはホンのお詫びのしるしだから、遠慮なく受け取っておくれ」
お萩はまっすぐに俺のところへ這い寄ると、ぴたりと肩を寄せた。
心臓が飛び上がるほど驚いたが、俺が女を苦手としていることを、ここでこの女に悟られたくない。
「中身はなんだ」
全身に脂汗を噴き出させながら、お萩の手にした重箱をのぞき込む。
中から出てきたのは、羊羹だった。
「珍しいだろ? こんな時でもないと、私も食べられないからさ」
お萩は勝手知ったる様子で土間に下りると、羊羹を切り始めた。
「お月ちゃんも食べるでしょ? お羊羹」
布団の中から返事はない。
お萩は鼻歌交じりに羊羹を切ると、それを皿に盛りつけて俺に差し出した。
「甘いもの、嫌いじゃなかっただろ?」
それをお萩の手から、直接受け取る。
動揺と緊張を隠すのに精一杯だ。
「ほら、お月ちゃんも」
お萩はあろうことか、衝立をあっさり脇へどかしてしまった。
月星丸の体を助け起こすと、羊羹の皿を手渡す。
「おいしいねぇ、お羊羹」
お萩は勝手に俺の横に腰を下ろすと、自分も食べ始める。
「ほら、千さんもお一つ」
指の先でつまんだ一切れを俺に差し出す。
これをどうしろというのか。
「はい、口開けて。あーん」
俺が一瞬意識を失っている間にも、お萩はつまんだ一切れを強引に俺の口元に押し当てている。
その座っている位置からは、月星丸からお萩の表情は見えまいだろうが、めちゃくちゃに顔が怒っている。
俺の頭は真っ白になって、息をするためだけに口を開けた。
とたんに、甘い塊がぐいぐいと無理矢理に押し込まれる。
当然、むせた。
「あらやだ、ほらお水飲んで」
お萩は自分の指先をぺろりとなめた。
何が楽しいのか、土間におりて湯飲みに水を入れて持ってくると、にこにこ笑いながら俺に水を差し出す。
その行為自体はありがたいのだが、俺の腕に添えられたお萩の手が、短剣でも押し当てられているように感じる。
思わず、渡された水をこぼしてしまった。
お萩はまた笑った。
これ以上は耐えられない。
「やめろ。そのように慣れ慣れしく近寄るな」
「もう、千さんったらホントにつれないんだから」
俺が決死の覚悟で放った言葉も、お萩には全く届いていない。
どうして女という生き物は、こうも人の話しをちゃんと聞こうとしないのか。
お萩はパシリと一発俺の腕を叩くと、くるりと月星丸を振り返った。
「ところで、お月ちゃんの具合はどうだい?」
叩かれたところがズキズキと痛む。
無論、それほど力が強かったわけではないが、与えられた精神的損傷の方が遥かにこたえる。
「う、うん。だいぶ良くなったよ」
この女はいつまで居るつもりなのだろうか、早く撤退して頂きたい。
「二人は、もうすっかり仲良くなったんだね」
月星丸のその言葉に、俺は激しく自分の耳を疑う。
どこをどう見ればそういう結論に達するのか、全く理解が出来ない。
「あら、だってねぇ、千さん」
お萩は照れたように、ニヤリと笑みを浮かべた。
これだから女どもの会話というものは、俺には全く理解不能だ。
「じゃあ、邪魔しちゃ悪いし、そろそろ帰るね」
お萩は重い腰をようやく浮かせた。
「じゃあ千さん、また後で」
「あぁ、分かった」
そう言われても、何がまた後でなのか、何の事だかさっぱり分からなかったが、帰っていただけるのなら何でもいい。
俺は早々にお萩を追い出そうと、手を振った。
お萩はくすりと笑って、同じように手を振る。
それでようやく帰っていった。
助かった。
お萩の姿が見えなくなると、俺にどっと疲れが押し寄せる。
ようやく解けた緊張と、脈打つ心臓の早さに、床に転がっていないと耐えられない。
すぐさまごろりと横になった俺を、月星丸は見下ろした。
「千さん、顔が赤いよ」
当たり前だ。
俺はいま全身から変な汗を吹き出している。
「来てくれて、よかったね」
俺は月星丸をギロリとにらみあげる。
息も絶え絶えな俺に、返事は出来ない。
「千さんの女嫌い、もう治ったんだ」
もう一度月星丸を見上げる。
まぁ確かに、こいつと住むようになってからは、少しは耐性ができたのかもしれないな。
「お前は女っぽくないからな」
俺は吐き気と頭痛に侵された頭を抱えて起き上がった。
「俺じゃ治らなかったのにね」
「それはない」
今だって十分に気分が悪い。
外の空気を吸いに行きたいが、この家を空けていいものだろうか。
吐き気を堪えて窓の外を見る。
「行きたいんなら、行ってきていいよ」
「悪いな、少し出てくる」
月星丸の方から、そう言ってくれるならありがたい。
俺はふらふらと部屋の外に出た。
お前には悪いが、本当はお前と同じ部屋の空気を吸うのも、少し息苦しい。
話しかけられて答えるのも厄介なら、顔を見ているのも辛い。
だけどその痛みが、他の女とは少しだけ違うことが、唯一の救いだ。
俺は歩き出した。
長屋の門木戸をくぐろうか悩んで、やはりその場に留まることにした。
胸の動悸は続いている。
自分の部屋の土壁にもたれて、井戸の上にかかる月を見上げた。
結局俺はそこで、一晩を過ごした。
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