第壱拾壱話

店では数多くの丁稚や奉公人たちが、朝飯の支度を始めていた。


飯を炊く幸せなにおいがあたりに漂っている。


「邪魔するぞ」


俺は店先から勝手に上がり込むと、奥の部屋へと向かった。


「おやこれは千之介さま、そんなにお疲れになった様子でどうなさったのですか?」


早速萬平が現れる。


「わけなどない。そなたには関係のないことだ」


どかりと畳の上に腰を下ろすと、カラカラと萬平は笑った。


「おやおや、今日はこちらで朝を召し上がるおつもりですか? 申し訳ないのですが、別のお部屋に用意させましょう。どうぞこちらへ」


促されて、渋々と立ち上がる。


「どこへいくつもりだ」


大名屋敷に匹敵するような敷地の広さだ。


短い廊下でつながったあちこちに、細かい仕切りと小部屋がいくつもあり、迷宮のような作りになっている。


「失礼いたします」


萬平がそっと襖を引いた奥の部屋には、布団が敷かれていた。


そこから起き上がったのは、月星丸だった。


「おまえ! なぜここにいる!」


月星丸は、ぽかんと俺を見上げている。


「俺は一晩中お前を探し回ったんだぞ!」


勢いにまかせて、俺は襟元をつかみ引き寄せる。


「なぜ逃げた! 俺がお前を騙すとでも思ったか!」


「……、騙してここへ、連れてきたじゃないか」


「一晩中、どこをほっつき歩いてた!」


「俺だって大変な目にあってたんだ、必死で逃げてきたんだよ」


胸元が苦しいのか、月星丸は潤んだような目で俺を見上げた。


「一時の、夢を見ていたような気分だった。あのままあんたに殺されるなら、それでもいいと思った」


「ならなぜ逃げた?」


「……やっぱり、死にたくないと思ったからだ。最後に……あんたに裏切られた記憶のままで、殺されるのかと思うと、嫌になった」


月星丸の赤く潤んだ目が光る。


「あの後であんたに斬られるか、また引き渡されるくらいなら、助けて一緒に逃げようとしてくれた言葉を信じて、どこかで隠れてひっそりと生きようと思った」


襟元を握りしめる手が緩む。


「……なら逃げるな」


「仕方ないだろ、俺だって必死だったんだ」


月星丸の手が、襟をつかむ俺の手に触れた。


「苦しい、離して」


その柔らかな触覚に、俺は反射的に両手を上に上げる。


「なんだよ、そんなに触られるのが嫌か」


「うるせぇ、俺を殺す気か」


心臓がばくばくしている。


俺は月星丸から触れられないように、少し離れたところに座り直した。


「あんたの病気だって、まだ治ってないじゃないか」


すねた様に横を向いた奴の顔は、完全に少女そのものだ。


胸の動悸が収まらない。


何をどういわれようと、これだけは治らない。


「まぁまぁ、無事に再会出来てなによりでございました」


萬平は、にこにこしながら座っている。


「くそ、万屋、俺を謀ったな」


「おほほ、敵を騙すにはまず味方からということを、お忘れになりましたかな」


「いつからこんな手はずになってたんだ!」


「それは全くの偶然にございますよ」


萬平は言った。


「ちょいとした寄り合いの帰りに、偶然月星丸さまとばったりお会いしましてね。このまま運良く万屋までたどり着くことが出来れば、お助け申しますと言ったのです」


「あそこで萬平どのに出会っていなければ、今頃本当にどうなっていたのか分からない」


「それもこれも、月星丸さまが強運をお持ちのおかげでしょう」


「そなたには心から感謝する」


月星丸がそう言うと、萬平は笑った。


「なに、あそこで私と出会わなくても、この千之介さまが、あなたを必ず捜し出して助けてくれましたよ」


「やかましいわ!」


月星丸の顔が真っ赤になっている。


俺の顔もつられて赤い。


やはりこの万屋は苦手だ。


「で、こいつの正体は一体何者だ」


その言葉に、萬平はただ月星丸の前にひれ伏し深々と頭を下げただけだった。


月星丸は、ふぅとため息を漏らす。


「それを知れば、あんたも無事では済まなくなる」


「上等だ」


昨夜は風呂にも入れてもらえたのか、すっかり小ぎれいになった月星丸は、布団から出ると座り直した。


一つため息をつく。月星丸は、語り始めた。


「俺は、産まれたときから、すぐに死ぬか、殺されるものなんだと思っていた。だから、何もかもどうでもよかったし、いつ死んでも仕方ないと思っていた。だから何もかも好き勝手に振る舞ってきし、周りも何となくそうと知って許していた。それが当然と思えるような毎日だった。当たり前だったから、それで、俺自身もいいんだと思っていた」


月星丸は、そっとうつむく。


「だけど、元服の話しが出て、成人の日が近づいてきて、いよいよ俺の命もここまでだと覚悟したとき……、だから最後に、少しだけ自由になってみたいと思った」


少年と思っていた少女は、両手に顔を埋めた。


「思い切って出てみた外の世界が、何もかも珍しくて、楽しくて、俺はようやく自分が自分になれたような気がした。俺が今までの俺でなくなった時に、俺は初めて自分になれた。それで初めて、本気で死にたくないと思ったんだ」


白く細い手で涙をぬぐう。


「あの場所で、元服を迎えるまでに生き残れる者は、半数にも満たない。俺は間違いなく、いつの間にか消えていなくなる方の半分だ。だから、逃げてきた。これからも、俺が生きている限り、追っ手の数は絶えることはない。ここにこうして隠れていても、この先どうしていいのか、俺には分からないんだ」


一筋の涙が、月星丸の頬を伝って落ちる。


「どうか、今まで通り変わらず接してください。俺がそうしてほしいから。俺にはもう、それ以上のことは言えない」


俺はちらりと萬平に目をやった。


こんな話だけでは、中身が全く見えてこない。


だが萬平はかしこまって座っているだけで、何も付け加えて話そうとはしなかった。


ということは、俺だけが知らずにいろということか。


心の中で、こっそりとため息をつく。


まぁよい。


余計な算段をつけるのは得意じゃない。


いいように踊らされるなら、踊らされてみるのもまた一興。


「それで、どうしたいんだ?」


俺は月星丸を見る。


「あんたはこのままここに残りたいのか、どこか遠くへ逃げたいのか、それともいずれは戻りたいと思っているのか、それを決めてもらわぬことには、どうにもならぬ」


「決めたところでどうにかなるのか!」


「お前が余計なことを話したくないのなら、俺も聞かぬ。だがそうするのであれば、こちらもそれなりになることを忘れるな」


俺は月星丸を見下ろす。


「全てそなた次第だ」


出来ることと出来ぬことがある。


その選択肢を選ぶのは俺ではない。


「お前が何かを望むなら、俺は全力でそれを助けよう。けれど何も望まぬというのなら、助けなどそもそも必要あるまい。好きに暮らせ」


「俺はここで、あんたと一緒に暮らしたい!」


突然のそんな告白に、耳まで血が上りそうになるのを、俺は必死で押し返す。


「そりゃ無理だ」


「今、全力で助けるって言ったじゃないか!」


「やかましいわ、このクソ女」


「なんでだよ!」


「俺は女は嫌いだ」


月星丸は涙をたたえた目でにらみつける。


だがそんなことは知ったこっちゃあない。


「やい万屋、今度拾ったのはお前さんだ。どうするかはあんたが決めろ」


「では月星丸さま、いかがいたしましょう」


「俺は千之介と一緒に長屋で暮らす!」


「それは却下だ」


立ち上がり部屋を出て行こうとした俺を、万屋が引き留める。


「千之介どの、私から仕事の依頼でございます」


萬平はにこやかな表情を何一つ崩さす、俺を見上げる。


「月星丸さまの、身辺警護のご依頼です。しっかりとお守りください」


「ふざけるなよ、万屋!」


「まぁ千之介どの、何をおっしゃることやら。この万屋萬平の見立てに間違いはございません。この仕事、受けて損はございませんよ」


萬平は、満面の笑みを月星丸に向けた。


「では月星丸さま、護衛役にこの千之介をおつけいたします。どうかよしなにお願いいたしますよ」


萬平は月星丸に対して、諸手をついて頭を下げる。


「恩に着る、萬平どの!」


「ふざけるな、俺は知らん!」


部屋を出る。


後ろ手に閉めた障子の奥から声が聞こえてくる。


「待ってよ、千さん!」


「大丈夫ですよ、すぐに追いかけなさい」


その言葉通り、月星丸はすぐに飛び出してくると、大股で廊下を歩く俺の後を追ってくる。


「受けた仕事はちゃんとするんだろ!」


寝間着のままで駆け寄る月星丸の姿を見た瞬間に、俺の息が止まった。


「服を着てから出てこい!」


身支度が済むまで、俺はイライラしながら裏戸近くの縁に腰を下ろして待つ。


出てきた月星丸は、元のボロをまとった少年の姿になっていた。


「ほら、この格好なら千さんも平気だって」


「平気ではないが、まだましだ」


立ち上がり、先に歩く。


「俺も容赦しないぞ」


「うん」


俺と月星丸は、揃って裏口から外へ出た。


先が思いやられる。


どこまで、いつまで、このわがままにつき合えばいいものやら。


長屋に戻ると、何もしらない住人とその子どもたちが寄ってくる。


「おや、二人揃って朝から出かけてたのかい?」


「うん、ちょっとね」


月星丸は、うれしそうに井戸端で洗濯をするお富美さんの隣に座り込んだ。


「今日もさ、後で虎次郎と遊びに行っていいか? 河原で凧揚げしたいんだ」


「あぁいいよ。後で行くように伝えておくよ」


俺はため息をついてから、小さな我が家に戻る。


これから河原で凧揚げ? 


勘弁してくれ。


俺もつき合わすつもりか。


部屋の隅に布団を敷き直すと、そこへ横になった。


そういえば、昨夜は一睡もしていなかったことを思い出す。


外から聞こえるにぎやかな笑い声を尻目に、俺はすぐに眠りについた。

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