間章「陽溜まりの終焉」


―――アイルランド北部。


「お姉ちゃん!! 帰りなさい!!」

「只今帰りましたわ。何事も無かったかしら?」

「うん。政府の人がお姉ちゃんにコレを渡して欲しいって……」

「あら? 手紙……?」


 周囲には街並みも無く。


 木々が茂る山間の斜面に立つ狭い築50年のレンガ積みの一戸建て。


 周囲には小さな家庭菜園。


 そろそろ冬支度を終え、温室に植え替える植物の鉢が花壇の横には並んでいる。

 食料が配給制になって久しい昨今。


 まだ、ハムが地下に大量にぶら下がり、缶詰も穀物も潤沢に蓄えられた家というのはそう多くないだろう。


 微かに薫るのはローズマリーか。


 刈り込まれて温室の横の小さな古びれたボイラーの上で大量に頭を垂れている。


 朝早いならば、暖炉にそろそろ火を入れようかという季節が迫るリビング。


 レモンバームの香りが僅かに鼻を抜ける琥珀色の液体が入ったカップが一組。


 ソファーの上には今日買って着たばかりだろう焼き立ての小麦の香りがするバゲットが二本。


 小さなテーブルの上に両手と顎を載せてニコリと微笑むのははしばみ色の瞳に煤けた金を思わせる灰金の髪をショートカットにした少女だった。


 少女の対面には同じような髪の色の長髪の少女がいる。


 身長も高ければ、顔立ちも大人びて十代後半というのを見れば、彼女が姉で2歳か3歳下だろう少女が妹というのは誰だって分かるだろう。


「……そう……政府はこの決断をするのね」

「どうかしたの? お姉ちゃん」


 少女は今日の夕飯を何にしようかと悩みながら久しぶりに帰って来た姉に微笑む。


「子供の気にする事ではないのですわ」

「もぅ。私だって立派なレディなのよ!!」


 少し頬を膨らませた少女はよく見れば、その額の中央に小さな紫色の文様のようなものが髪の下に見えていた。


 それは薄い小麦色の肌に馴染むような質感で痣の類ではない事が分かる。


「そうね。そろそろ貴女も……我が家の秘儀を教えておくべき年頃なんですのね……まだおしめを取り換えていた頃が昨日のように思えるのに……」


「も、もぉ!? そ、そういうのは恥ずかしいから止めて? お姉ちゃん」


 朱くなった妹に薄っすらと姉は微笑んで。


「ええ、無粋でしたわね。貴女も立派な淑女よ……」

「えへへ……ぅん」


 頭を撫ぜられて目を細める姿は子猫か子供そのものだ。


「もう……良い頃でしょう。色々と教えておきましょうか」

「ッ、それってお姉ちゃんだけ受け継いだ魔術!!?」

「いいえ、我が家の家系の秘密ですわ」

「秘密?」


「ええ、家にはインドの血筋が入っているというのは教えたわよね?」


「う、うん。何世代か前のご先祖様がインドからウチに嫁いで来たって……」


「そう。イギリスが世界帝国だった頃。インドから渡って来たの。当時の当主は男の方でお嫁さんとして貿易関係で渡航していた時に出会った女性を娶り、この地に居を構えた。私達の肌が小麦色なのはそのせいなのよ」


「それって秘密なの?」


「昔は奇異の目で見られたそうですわ。何で年頃の好きな血筋を貰えるだろう当主が植民地からわざわざって……」


「大変だったのかな?」


「苦労はしたそうよ。でも、それは秘密ではないのよ」


「?」


 妹が首を傾げる様子に姉が苦笑する。


「本当は……私達の祖先である当主の方はお婿さんだったの。それが秘密……」


「お婿さん?」

「ええ、嫁いだのは当主の方だったという話ね」

「それって……その……ええと」


「貴女にはまだ難しいかしらね。でも、簡単に言えば、お嫁さんの方が偉かったのよ」


「ええ?! そうなの!?」


「インドのバラモンよりも上の血脈だったの。それも遠い遠い神話に出て来るような……」


「バラモン?」


「インドの神官よ。教会の牧師さん……よりは偉いでしょうね」


「そ、そうなんだ!?」


「まぁ、そう比べられるものでもないのだけれど、枢機卿みたいなものと考えればいいわ」


「凄く偉いのね!!」


「そう、血統の上でも持ち得た秘儀の上でも釣り合いが取れていなかったと言われているわ。でも、あちらにも何か理由があって娘を異国の青年に預けた」


「どうして?」


古伝章プラーナリヤを伝える為……」


「ぷらーなりや?」


「そう大そうなものでもないの。でも、世界の終りまで受け継いでいかなければならない。この仕事柄、危険が付きまとうのはどうしようもないから……貴女には教えておかなければね。手を出して……」


「う、うん」


 妹の手を取って、姉の指がその甲に何かを記す。

 肌をなぞっただけだ。


 しかし、記された少女は自分の中に何かが刻まれたような感覚を覚えた。


「これでいいわ。貴女が一人前になれば、少しずつ自然と思い出すでしょう」


「お呪い?」

「ええ、古い旧い昔から伝わるものよ」

「今、教えてくれないの?」

「その内に分かるわ。その内に……それより宿題は?」

「ちゃんとやってたのよ。ほら!!」


 少女が厚手のセーターと厚手の刺繍の入った野暮ったい布地のスカートのポケットから何かを取り出した。


 それは黒い正方形の物体だった。

 受け取った姉がそれを繁々と観る。


「………60点」

「えぇ?! 今まで最高の出来なのに!?」

「だから、一番高い点数を付けて上げたでしょう?」

「うぅ、何処がいけないの? お姉ちゃん」

「もっと研鑽すれば、分かるようになるわ」


 その答えに妹がまたちょっと膨れた。


「我が家が黙示録の四騎士との決戦で生き残ったのはね。この力があればこそなのよ。今やロンドンに残っているのは低階梯や戦えぬ者だけ……私程度に力を結集しても失われた先代達には遠く及ばない。けれどね」


 黒き箱がそっと虚空に掌から浮き上がり、僅かな蒸気を周囲に噴出させる。


「この我が一族の秘儀が存在する限り、決して希望は消えないの」


「お姉ちゃんみたいに強くなれるから?」


「【蒸気律師スチーム・トーラー】……我が屋の術師を魔術師達が呼ぶ時の名はね。この箱の蒸気に由来する。この箱を生み出せる事。それが我が一族たる資格……でも、この【黒匣ザ・ブラック】は本来、戦う為の力ではないのよ」


「え?」


「私は強くなんて無いの。少し格闘術を身に着けただけの小娘に過ぎない……でも、これがあるから、戦ってこれた。まだアイルランドもイギリスもあの騎士達の襲撃を受けて尚この世界に存在していられる。今もまたヨーロッパからの新たな脅威に晒されながらも……」


 姉の微笑みに妹は何処か不安を覚えた。

 それは今にも消えてしまいそうに思ったから。


「お、お姉ちゃん。今日は泊まっていけるんでしょう? じゃあ、お姉ちゃんが好きなスープ作るわ!! 具が沢山のチーズ一杯のやつ!!」


「ええ、腕を上げたのを見せて頂戴な。私の可愛い妹……」


「うん!!」


 姉が箱を学校の制服の袖に仕舞い込んだのを機に妹に笑みが戻る。


 キッチンへと向かおうと少女が壁に掛けられたエプロンを取ろうとした時。


 雷鳴が響いた。


 それがあまりにも長大な響きだった為、思わずビクリとした少女は姉の胸元に駆け込んだ。


「長いわね」


 妹を抱いたままにその瞳が窓から外に向けられて。彼女は一瞬だけ世界が夜になったのかと錯覚してしまった。


 だが、それが違うのだと分かったのは青空が窓の両端に僅か映っていたからだ。


「お、お姉ちゃん? どうかしたの?」


「―――あぁ、もう少し先だと思っていたのだけれど、そう……彼らの一人が倒された……そういう事なのね。きっと……」


「お姉ちゃん?」


 愛しい妹の不安げな顔を見下ろして。

 そっと頭を撫でながら、姉は微笑む。


「私の愛しい妹シュルティ……いつか【永遠オーム】を奏でるのですわ。来るべき日に全てを取り戻す為に……100点を上げられなくてごめんね……」


「お、姉ちゃん?」


 姉の顔がいつものものから仕事をするものに変わった事を少女は知る。


「今から言う事を良くお聞きなさい。ロンドンの【正史塔タワー】で私の妹である事を告げなさい。そして、極東の彼らに救援を請いに行くのですわ。私の道具は部屋に全てあります。それを持ってお行きなさい」


「何言ってるの!? お姉ちゃん!!」


 不安げに怯える顔。

 その額にコツンと掌サイズの黒き箱が押し付けられ。


「これは我が家の使命。そして、貴女に与える最後の宿題よ。古の約束を果たし、真実に辿り着き……そして、決断なさい」


「おね……ぇ………」


 カクンと力が抜けた妹の身体と黒き箱をそのまま彼女は浮かび上がらせ、虚空に円環を描き出すとそのまま転移で消し去る。


「ふふ、我ながら逃げられないというのはこういう時、不便ですのね」


 玄関から外へと出た彼女は片手を上げる。


 すると、彼女の背後に5m四方の巨大な黒き箱が滲み出るように現れて浮かび上がった。


「これが【永遠都市ルルイエ】と共に大西洋へ封印された……笑っちゃいますわね。こんなのどうしようもないじゃない……でも、彼らなら……きっと辿り着く……その時、わたくしの願いもまた……」


 その黒き夜が降ってくる。

 青空を割って振って来る。


 それは横幅50km、縦450km程の海から屹立した剣のような何かだった。


 大気層が割れ、気圧偏差で嵐が巻き起こり、雷がソレと大気の摩擦によって鳴り響き、落下速を伴った大質量が断熱圧縮に焼き付きながら赤熱化して超音速を越えて先端を北アイルランドに叩き付け、そのインパクト寸前の風圧……いや、爆圧によって全てが更地になり、人もモノも全てが巻き上げられ、圧し潰され、拉げて遠くへと消え去った。


 ソレがズルズルと海の中へと戻っていく時、巨大なソレの一部は何かの影響で千切れた様子で形の変わった細長い島ばかりとなった元アイルランド北部の一部に残り、アイルランド南部は壊滅的な被害を受け、イギリス中部もまた余波によって数百万規模の死傷者が出た。


 こうして総死者数は後に数千万人単位にも及んだ事が確認される。


 その日、建物、人、看板、魚、大地、樹木、などが欧州からアフリカ北部まで降り注ぎ。


 空震によってイギリスのガラス窓は全て割れた。

 そうして、人類にとって決定的な変化が一つ。


 以来、欧州の人間が二度と蛸と烏賊を口にする事は無くなった事は人類にとっては文化に残る事件の傷跡であったに違いない。


 それは歴史上観測された中で最大の個体。

 大陸を削る足。


巨神海獣ギガンティック・クラーケン】と後に呼称される事になる存在の一部が引き起こした人類への爪痕に違いなかった。

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