第87話「真夏の夜の夢#1」

 ―――ブンカがメイサンチ~~ブンカがメイサンチ~~♪


 少年がふと気付けば。


 何やら先程までとは違うような広い屋上のベンチに座っていた。


 夏という事もあってか。


 フードコートが設置された其処は家族連れで溢れており、かき氷やソフトクリームを持つ子供達が何やら長椅子に座って、如何にも悪そうな悪役と如何にもカッコ良さそうな主人公の活劇ヒーローショーに目をキラキラさせている。


 いつの間にか衣服はTシャツとジーンズにサンダルとなっていた。


「あ、ユーヤ。何処行ってたの?! 心配したのよ?」


「え?」


 少年が声のした方を振り向くと先程まで治療を施そうとしていた姉妹達がどちらも麦わら帽子にノースリーブの白いワンピース姿で涼し気ながらも艶やかに男達の視線を釘付けにやって来ていた。


「え、ええと……その……だ、大丈夫、ですか?」

「どうしたの? あ、お姉様、ユーヤが変なの」

「そうなんですか? ユウヤさん?」


 姉が少年を覗き込み、額に少しひんやりとした手を当てる。


 茫洋とした熱気は薄ら雲の下で蒸して身体を重くしたように動きを遅め、それを止めようとした手は微かに彼女の手に触れるのみで。


「あの、僕は大丈夫、ですから……ええと、名前を聞いてもいいですか?」


「ユーヤがお姉様の名前を忘れてる?!! 熱中症かもしれないわ!! お姉様!! 中に入りましょ!!」


「そうですね。ユウヤさん。随分と暑かったでしょうし、涼しいところで少し休みましょう」


「え、あの、僕はユウヤサンとか言う人じゃないんですけど」


「……これは重症だわ?!」


「そ、そうですね。ユウヤさんはユウヤ・ノイマン……私達と一緒にデパートに遊びに来た、というところまですっかり忘れてるような……ちょっと、熱中症の手当が必要みたいです」


「あ、あの、それよりもぼ―――」


 少年が出した手を取った外見だけで見れば、少年と同じような歳の彼女がしっかりと手を握ってタタタッとスカートを押さえながら早歩きで少年を屋内へと引っ張っていく。


「患者は黙ってなさい!! ユーヤッ!!」

「だから、僕はユウヤサンとか言う人じゃ―――」


 言っている間にも少し速足で後ろから少女の姉もやって来てフフフと口元に手を当てて微笑んでいた。


 十数分後。


 救護所として開放されているデパート内のクリニックの一角。


「どう? 大丈夫? ユーヤ、私達の事思い出せる?」


 まだ10歳前後くらいだろう少女が泣きそうな顔になっていた。


「その……ごめんなさい……」


「お姉様。ユーヤ、私達の事、分からないってッ?!! どうしよう!?」


 姉に不安そうな表情を向けた妹の頭を撫でてから、彼女が少年の頬に優し気に手を当てる。


「もう熱も引いてますし、取り敢えず、家に連れて帰りましょう。もしかしたら、落ち着いた場所なら思い出すかもしれません」


「あの……お名前を聞いてもいいですか?」


「あ、はい。ユウヤさんと私達は初対面、なんですよね。じゃあ、ほら。悠音」


「え、で、でも……」


「思い出すまでにどれくらい掛かるか分からないし、名前を呼び合えないと不便ですから、此処は……」


「ぅん。ユーヤ。あたしは緋祝悠音ひのはふり・ゆうね。覚えてない? ユーヤはあたしの弟分なんだよ?」


「オトートブン? 弟分? ええと、そのユウヤサンは何歳なんですか? 僕は一応、15なんですけど」


「歳は覚えてた!? お姉様!!」


 妹、悠音がコレは記憶が戻っているに違いないと姉に向き直る。


「ちょっとずつ思い出すのかもしれませんね。というか、嘘を教えてはダメです。ユウヤさんは私の弟分で悠音にとってはお兄さん分でしょう」


「ち、違うもん!? ユーヤは弟分なの!! だって、背は私とちょっとしか違わないし、背丈も小っちゃいし!! いつもオドオドしてるし、謝ってばっかだし!!」


「優しいって言ってあげましょう。そこは……」

「あ、あの~僕は―――アレ?」

「どうかしたんですか? ユウヤさん」

「いえ、その……ちょっと、名前が思い出せなくて」


「だ~か~ら~ユーヤ!! ユーヤ・ノイマン!! ドイツ系で小っちゃくて同級生からすらカワイイ呼ばわりされるウチの学校に来ても生徒に間違われるユウヤ・ノイマン!!」


「……ぅ、その小っちゃいとかの下りは僕にも刺さるので、で、出来れば、無かった事に……」


「これは重症そうです。しょうがありません。今日は帰ってユウヤさんにご自分の事を教えて差し上げましょう。そうすれば、少しはまたご自分の事を思い出すかもしれません」


「もぅ。何でキオクソーシツとかになっちゃうのよ!! ユーヤの馬鹿!!」


「ご、ごめんなさい」


「ぅ~ん。謝るところは変わらずユウヤだわ。ね? お姉様」 


「ふふ、意地悪言わないで人の気持ちを慮れる人ってそこは言ってあげましょう。ね?」


「むぅ……」


 姉がすっと少年の頭を撫でる。


「私は緋祝明日輝ひのはふり・あすてる。初めまして、ユウヤさん」


「は、初めまして。アステルさん」


 二人の少女に手を惹かれるように連れられて、少年はデパート裏に停まったタクシーで数十分の移動を余儀無くされることになる。


 その合間も少年に悠音は次々に質問しては忘れている事に頬を膨らませ、何で覚えてないのと言っては責めるのだった。


 *


 タクシーを降りた時。


 少年が見たのは日本の邸宅らしき広い一階建ての御屋敷の前だった。


「大きい。お二人は此処に住んでるんですか?」


 明日輝が頷く。


「そうですよ。ユウヤさんは此処に住んでるんです」


「え?」


「正確にはお家自体すぐ近くにありますけど、緋祝家がユウヤさんの後見人なので」


「そ、そうなんですか?」

「はい。詳しい事は中で話しましょう」


『お姉様~~ユーヤ~~早く~』


「行きましょうか」

「は、はい」


 屋敷そのものは古びれていた。


 塀はまだ辛うじて崩れていないが、玄関口の先の庭には何かしらの薬草になりそうな香草類が雑多に茂っており、庭には洗濯物を掛ける物干し台がある。


 奥には離れや土蔵もあるようだった。


 玄関先から長い廊下を抜けて居間に辿り着くと床張りで純和風な外観とは違い。


 かなり長いソファーが壁際にあって、その前にあるテーブルに何やら悠音が大きな冊子……アルバムらしきものを取り出して広げている。


「ほら、これが去年のアルバムよ」


 少年が横に座ると明日輝は小さく微笑んですぐ傍のダイニング・キッチンに向かった。


「お夕飯作っちゃいますね。二人はアルバムを見てて下さい」


「あ、あたし、ムニエルがいい!!」


「白身魚はありますから、そうしましょうか。付け合わせはいつもの人参のグラッセでいいですか?」


「うん!!」


 悠音が物凄く楽しみにしているような笑顔になった後。

 ハッと少年の視線に気づいてコホンと咳払いした。


「ほ、ほら、映ってるでしょ。ユーヤが」

「あ、はい」


 確かに少年が見る限り、それは自分の顔だった。


 制服らしきものを着た少年と厚手のオーバーコートに身を包んだ悠音が雪の降った庭を背景に並んで写真には写っている。


「この頃だった……ユーヤが家に来たの……泣いてたユーヤを慰めるの大変だったんだから」


「えっと、何で泣いてたんですか?」


「それは……ど、どうでもいいでしょ!! とにかく、ユーヤはあたしの弟分なんだからね!! 分かった?」


「は、はい」


 アルバムが次々に捲られていく。

 その中には春頃に撮られたらしい家族写真があった。


 金髪の少女達の父親らしい60代の男性と30代くらいの長い黒髪のよく少女達に雰囲気が似たというよりも姉妹を足して2で割ったようなと評するべきだろう女性が娘達と少年と共に映っている。


「この頃はまだ皆いたの……でも、もう写真撮れなくなっちゃった……お姉様は新しいカメラを買おうって言ってたけど、あたしは……」


 何やら複雑な家庭事情らしく。

 顔を俯けた悠音の手がアルバムを捲ろうとして震えていた。


「ユーヤが……私達を撮るんだからね? 約束したでしょ……」


「……ごめんなさい」


 必死な瞳にしかし嘘も付けず。

 少年が謝るしか出来ずに気まずい雰囲気が流れる。


「馬鹿……どうして忘れちゃったの……」


『悠音~あんまり無茶しちゃいけませんよ~ユウヤさんだって辛い事が沢山あるんですからね~』


「―――うん……お姉様……」


 沈んだ様子ながらも何とか、そう呟いて。


 悠音が次々にアルバムの中の出来るだけ明るそうな写真を見せては思い出を語っていく。


 それはさり気無い事ばかりだ。

 日常の笑ってしまうような失敗や経験ばかり。

 少女の話を聞く限り、ユウヤ・ノイマンは少年に似ていた。


「……ユウヤさんとの思い出、凄く大事にしてるんですね」

「あ、当たり前でしょ。もう家族みたいなものなんだから」

「ユウヤさんが羨ましいです」

「だぁ~かぁ~らぁ~?!!」


『ご飯出来ましたよ~』


 エプロンを片手にして戻って来た明日輝が二人の傍にやってくる。


「お姉様。ユーヤのキオクソーシツ、頑固過ぎだわ!!」

「それは困りましたね。せっかくの夏休みなのに……」

「そうよ。ちゃんと予定も立てたのに……」


 少女が何やら懐から手帳を取り出して、少年に見せ付けて来る。


 その中には1か月程の予定がビッシリと書かれていた。


「その……お二人は学校に通ってるんでしょうか?」

「そうよ。ユーヤもお姉様と同じ学校なのよ?」


「日本だと長期のお休みには何か課題が出たりはしないんですか?」


「―――」


 微妙な顔になった悠音が背後からの視線を感じてか。


 ジトッとした汗を浮かべ、ササッと赤い手帳を仕舞おうとして。


「悠音?」


 ビクッと姉の声にその手を震わせて止めた。


「うぅ~~ユーヤのバカバカ!!? 余計な事は言わなくていいの!!」


「はぁ……仕方ありません。大切な予定の日以外はちゃんと昼間や朝方に課題という事で」


「ちゃ、ちゃんとやるわ!! 勿論!!」


「夏休みの終わりの3日間で完璧にやってみせるのは我が妹ながら大したモノと思うんですけど、継続そのものが課題の一つである事は疑いようがありません。土壇場で失敗してしまう事になったら、困るのは将来の悠音ですから」


「ぅぅ……ユーヤ、覚えておいて。お姉様が正論を言い出したら、もう頑固で聞かないのよ?」


「病人のユーヤさんには悠音の分までグラッセを食べて貰う事にしましょう」


 ニコニコ笑顔で弱点を突いた姉に少女はガクリと自分の敗北を悟った。


「……ぅ、勉強は毎日します……お姉様」

「良い答えです。ふふ」


 頭を撫でる姉と撫でられる事に少しだけ恥ずかしそうながらも負けたと言わんばかりに潔い妹。


 その姉妹の遣り取りに少年が僅かに口元を緩めた。


「さ、ユウヤさんもお腹が空いてますよね。冷める前に食べちゃいましょう」


「は、はい……」


「パンは温め直したのがあります。ナイフとフォークの持ち方は覚えてますか?」


「そ、それは大丈夫だと思います」


「そうですか。では、朝のビーフシチューもあるので、一緒に頂きましょう。ね?」


「ユウヤさんが羨ましいです……こんなに大切にして貰えて……」


「「………」」


 その言葉に姉妹はまだ言ってるという顔でしばらくは覚悟した方がいいのだろうかとヒソヒソと会話した後、何かを決めたように少年を見やる。


「しばらくは私達が思い出すまでサポートしますから。何か分からない事があったら言って下さいね?」


「は、はい」


 その言葉は確かに優し気だったが、有無を言わせぬ迫力があった。


「ユーヤ。あたしにも聞いて良いからね?」

「は、はい」

「さ、本当に冷めちゃう前に頂きましょう」

「は~い」


 二人と共にテーブルにキッチンから料理を運んで配膳後。


 少年は日本のマナーとして習っていた頂きますの掛け声を姉妹達と共に掛けてから、その外側はパリッとしたムニエルをサクリとフォークで切って、中身のフワリとした仕上がりに驚き。


 フィークで口に運んでまた驚いた。


「―――美味しいです。魚ってこんなに美味しいものなんですね」


「ユーヤ。味まで忘れちゃってる……でも、そうよ。お姉様の料理は日本一なんだから」


「そんな、持ち上げ過ぎです。本のレシピの通りに創ってるだけですから」


「いえ、本当に美味しいと思いますよ。あの場所で食べた缶詰よりずっと美味しくて驚きました……」


「あの場所?」


 悠音の言葉に少年が言葉を続けようとして首を傾げる。


「どうかしたの? ユーヤ」

「い、いえ……何処で缶詰を食べたのか思い出せなくて……」


「ユーヤの家って実は缶詰派だったの? おばさま、お料理はちゃんとしていたと思ったけど」


「オバサマ……ユウヤさんのお母さんですか? そう言えば、ユウヤさんはこの家に遊びに来てるんでしょうか?」


「―――」


 何か悠音が固まって視線を逸らしていた。


「あの……」


「ユウヤさん。今はお食事を先にしましょう。ユウヤさんがちゃんと思い出して、疑問に思えるようになったらお話しますから」


「……分かりました。御免なさい」


「謝る必要なんて……だって、私達、家族じゃないですか」


 少年はその言葉に頷けなかった。

 しかし、悠音もそれ以上は何も言わず。


 冷気がクーラーから出ていても確かに何処か胸の温く湿り気を帯びた靄は張れず。


 そのまま静かに食事時は過ぎていった。


 *


 ユウヤの部屋は離れに置かれていた。

 渡り廊下を通って庭の端を抜けた場所。


 3部屋程の場所は個室と勉強部屋と物置に別れており、勉強部屋には机と鞄と本棚とデスクトップ端末が置かれていて、個室の棚には何やら少年には見慣れない機械仕掛けの男の子向けだろう人形……プラモが入った棚と作業机と何やら様々なソレを造る為の専門書らしきものが入った書棚……そして、しっかりと皺1つ無いシーツが敷かれた大きな寝台があった。


「此処がユウヤさんの私室ですよ。朝になったらシーツは洗濯に来ますから」


「あ、はい」


「今日は疲れたでしょう。私と悠音の部屋は本宅の中央に並んでますから、何かあったら来て下さいね?」


「分かりました。ありがとうございます。アステルさん」


 まだ心配していた悠音だったが、今日のところは休ませようという姉の言葉で渋々ながら、少年を名残惜しそうに見て、慌てて怒ったような顔を作るとジロッと睨んでから、屋敷の襖の奥に消えていった為、その場にはいなかった。


「………」

「ど、どうかしましたか?」


「ユウヤさん。忘れてしまってるのかもしれませんけど、この家の中でユウヤさんは私と悠音の本当の名前を呼んでくれてたんですよ?」


「本当の、名前?」


「はい。私達が家族になった日に教えたんです。お父様から頂いた大事な名前を……お母様はそれを真名と言っていました」


「真名……」


 少年が思い出す。


 そう、魔術師には二つ名と同時にそういった本当の名前がある。


 何か大事な魔術や本当に自身の命を掛けるような魔術を行使する時だけ名乗ったりするものだ。


「……僕にも有ります」

「え?」


「……あんまり人に教えられるものじゃないんですけど、全てが終わる日に唱えなければならないものなんです。お爺ちゃんと約束した……」


「―――そうなんですか。大切にして下さいね」


 その声の響きだけが今日一日聞いたものとは違う気がして。


 少年が顔を上げて女性にしては170台後半と高い背の明日輝を見上げる。


「?」


 しかし、其処にあったのは優し気で本当に少年を心配するような瞳の笑顔だけだった。


「あ、湯浴みはどうしますか? ボイラーはまだ付いてますけど」


 ふと気付いた様子で告げられて、少年がそう言えばと随分と汗を掻いていた事に気付く。


「あの、出来れば……」


「分かりました。じゃあ、お湯を張っておきますね。20分したら居間の反対側に来て下さい」


「はい。ありがとうございます。アステルさん……」

「いいんです。私達も入らせて貰いますから」


 少年の頭を優しく撫でて、部屋を出ていく金糸の髪にふとデジャブを感じて。


 思わず、声を掛けようとし、その名前が喉の奥から出て来ず。


 閉まった扉を数秒見つめていた少年は寝台にゆっくりと腰掛けて、そのプラモを見やる。


 戦艦のようなものもあったが、やはり一番多いのは恰好良さげな金属鎧の人型だった。


 本物の兵器とは比べるべくもない造形。


 しかし、確かに少年が見た事の無いような武器やどういう武器なのか想像が膨らませられるようなものを付けたソレ……ロボットのプラモが主無き寝台からはよく見えた。


 机の下や書棚の所々にはまだ作っていないのだろうプラモの箱が置かれており、机の上には布が掛けられている。


 少し悪いとは思いながらも、そっと埃避けの膨らみの内部が指先によって開かれる。


「鎧、じゃない?」


 少年がゆっくりと剥いだ場所には人形があった。


 まるでそのロボットの中では浮いてしまうような可愛らし気な同じ背丈のものが二体。


「………」


 再び、布が被せられた後。


 一人用にしては妙にガッシリとした大きなダブルベットの上で興味深いとプラモを眺めていた少年の耳に室内に付けられた屋内用の無線から明日輝の声が届いた。


『お湯が沸きましたよ。ユウヤさん……着替えはこちらで用意していますから』


「は、はい。分かりました!!」


 応えると内線の音声を出す壁のスピーカーが切れた。

 そのまま居間の反対側。

 洗濯機のある一室まで向かうと。


 確かに寝間着や下着が用意されており、それが真っ当な代物でホッとした少年は下着を籠に入れて、内部に入る。


 浴室内は全て薫りの良いヒノキで作られており、浴槽は広く。


 数人は入れそうな広さがあった。


 湯浴みの作法もまた日本に来た時に学んだ為、身体を洗う事に不自由も無く。


 お湯でまずは身体を流してからシャンプーだのボディーソープだのが使われた。


「ふぅ……」


 湯気の中、少年は息を吐く。


 湯は微温湯くらいの温度であったが、それ以上の熱さに晒されたような心地がしたのだ。


 そのまま湯船にようやく入れば、熱いという程ではないが、ジワジワと身体が下の方から温まり、微かに汗も浮かんでくる。


『お姉様。準備出来たわよ』


『分かりました。では、ユウヤさんもそろそろいい頃合いでしょうし、私達も……』


「え?」


 少年が何かを思う間もなく。

 パサパサと数秒の絹摩れの音がした後。

 浴室の扉が開いた。


「あ、あの、その?!! な、何を?! ぼ、ぼぼ、僕上がりま―――」


 ススッと湯気の中で胸元をタオルで隠した姉妹が入って来るとサッと扉を閉めて、悠音がズイッと湯船の淵で肩を掴んで少年をジト目で見る。


「やっぱり、忘れてる……お姉様。ユーヤ、覚えてないみたい」


「そ、その、何を、ですか?」


 思わず視線を最大限横に向けた少年に少しだけ悪戯っぽい笑みで燻る湯気の中、クスリと笑む。


「ユーヤは私達の家族なのよ?」

「ええと、それは聞きましたけど」


 悠音が己の胸を隠していたタオルを解いた。


「?!」


 思わず少年が更に首を横に向ける。


「もぅ……忘れちゃうなんて、許さないんだから……」


 顕わになる肢体は姉たる明日輝と比べれば、まったく未熟で発展途上。


 しかし、その年頃ならば普通なのかもしれない体付きはしかし、確かに女性らしいまろみを帯びつつあり、陽炎にも思えるよう煮立つ少年の脳裏にはしっかりと刻まれた。


 湯気があったとて、限界というものがある。


「お姉様。シャワー浴びたら、入っていい?」

「ええ、ちゃんと汗を流してからなら」

「ふふ、待っててね。ユーヤ」


 すぐにシャワーの音がしてその横で座るタイプの椅子に腰掛けた妹のタオルを持ったままの明日輝が少年に微笑む。


 同年代と比べても恐らく豊満過ぎる胸は―――を思わせるように少年には思えたが、その誰かの名前が出て来ない。


 薄い桜色の輪郭がその湿る白い縁から僅かに覗いていた。


「ッ~~~?!」


 肌の色は日本人としては少し薄い程度の少女達が今日一日外に出ていたとは思えないような染み一つ無い張りのある肌に汗と雫を浮かばせて同じ一室にいる。


 それだけで少年の頬を朱く。

 思わず二人に背を向けて身を縮こまらせた。


「ユウヤさんは家族です。もう私達は三人しかいない……だから、約束したんですよ」


「な、何を、ですか?」


 シュルリとタオルが解ける音。

 それと同時に何かがユサリと揺れる気配。


「そう遠くない日に……家族を作りましょうって……」

「~~~ッ」


 微かにシャワーで軽く身体が流される音。


 そして、ポチャリと水音がして。


 圧倒的な何かが少年のいる湯船の背後から迫り、二つグニュムと優しく押し付けられた。


「ユウヤさん……、試してみませんか?」


 囁くように甘く媚びた声。


 それは今日一日、少年を気遣ってくれた相手と同一人物とは思えぬ程に艶やかな。


 少年は水音が途絶え、外から聞こえて来る事に気付く。


 いつの間にか外では雨が降っていた。


「だ、だめです……僕はユウヤさんじゃ……それにお二人は……」


「だめじゃないですよ。悠音だってもう……ユウヤさんの事を想って……ほら……」


「ユーヤ……♪」

「?!」


 少年の固まっていた浴槽の隅に何一つ身に着けず。


 頬を上気させて、僅かに嗜虐的にも見える悪戯っぽい媚びた笑みで。


 悠音がまるで自分を見せ付けるように座っていた。


「ユーヤだって、もう立派に男なんだから…………付き合ってくれるって言ってたじゃない……恥ずかしがらないで? あたし達……家族でしょ?」


 スッと横から入って来た少女が姉とは比べられないものの。


 確かに僅かながらも主張する胸に片手を当てて、その後……薄く朱い肌を電灯の下で輝かせながら優しく少年の身体を抱くようにして手を回した。


「~~~ッッ」


 しなやかなな太ももが少年の胴体を挟むように絡み合い、少女の身体を柔らかさに逃げ出そうとした足元はそのまま済し崩しに床を捉えられず。


 倒れ込むようにして後ろに仰け反った少年の背中から頭部を包むように柔らかな感触が二つ。


「ユウヤさんは身体の力を抜いて……身を任せてくれるだけでいいんですよ……」


 ふと電灯が明滅して切れた。

 しかし、光は途絶えず。


 それが少女達の身体から出るものだと気付いた時にはもう少年の目が下腹部から背筋や脚に伸びる細やかな象形の数々を捉えていた。


 明日輝の手が少年の背筋をなぞるようにして指を這わせ、下腹部に後ろから手を回して、艶かしく肌をなぞり、少年に触れる。


「ぁぅッ」


「可愛い声……ユウヤはお姉様の指、好きだもんね?」


 悠音が少年の上に跨るようにして膝立ちで半ば身体を重ねるように倒れ込み、顔を近付けて、その両手を自分の両手を重ね、恋人達がするかのように握る。


「ユウヤさんは可愛いですよ……ふふ♪」


「でも、ユーヤはあたしと重なるのも……好きでしょ。ね?」


「―――」


 少年の身体から力が抜けていく。


 二人の少女の身体を奔る光の線は目で追えば、全てを白日の下に晒すかのように何もかもを少年の目に見せてくれる。


 二人に釘付けになってしまった瞳を外そうとしても、肉体が言う事を聞かない。


 それはもはや呪いのように少年を甘い鎖で絡め取り、触れた部分から生気を吸い上げ―――。


 その時、チリンと音がした。

 電灯の消えた雨の降る浴室。

 湯気すら見えない密室の外。


「マヲー?」

「クヲー?」


 鳴き声が二つ。

 すると、フッと電灯が元に戻る。


「ご、ごご、ごめんなさい!?」

「きゃ!?」

「ひゃ?!」


 少年の身体に力が戻る。


 それと同時にザパァッと湯を跳ね飛ばして慌てて立ち上がった少年が浴槽から逃げ出す。


 浴室の扉が開くと慌てて閉められ、少年はタオルで身体をザッと拭いてから、そのまだ水の滴りそうな脚で離れへと着替えを持って駆け出していく。


「………猫?」


 明日輝が窓の外を見る。


 しかし、その声の主達はもう何処にも見当たらなかった。


「あいつ……あんなにしてた……苦しくないかな……」


 逃げられたというのに少年を心配する妹の顔に明日輝が僅か嬉しくなって『本当にこの優しい子は……』と頭を撫でる。


「きっと、記憶が戻ってないから驚いちゃったんですよ。心配しないで……悠音……」


「ぅん……」


 夜、まだ雨は降り続き、明け方まで止む気配は無かった。

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