地球氷結

おもちさん

プロローグ

「ケイゴ君、早く早く!」


 少女がエスカレーターを駆け下りながら、背後の少年にそう叫んだ。相手はというと、その機敏な動きに合わせる素振りすら見せず、むしろ制止の言葉を投げ掛ける。


「待てよヒナタ。急いだってホームで待つだけだろうが!」


「そうだけどさ。ジッとしてらんないもーん」


「あとさ、恥ずかしいからガキみたいに騒ぐのやめろよな」


「別に良いじゃん。アタシら以外に誰も居ないよ?」


 駅構内は酷く空いていた。首都圏の地下鉄といえども、早朝であれば利用客も限られている。改札を抜け、地下2階のホームに行き着くまでの間で、すれ違った人は居なかった。耳に聞こえる音といえば階段を降る音と、2人の言い争いくらいだ。まるで営業時間外であったり、廃線の駅にでもやって来たような錯覚を覚えるが、改札付近で何らかの作業をしていた駅員の姿がどちらの考えも否定する。ケイゴは胸の中で軽く再認識を終えると、ホームの端に足を踏み入れた。


「ねぇ。やっぱり迷惑だったかな?」


「迷惑って、何が」


「今日の用事にさ、強引に付き合わせちゃったじゃない」


「別に。暇だから構わねえよ。それは誘われた時も言っただろ」


「でもさ、何だか機嫌が悪そう」


「そりゃ唐突に4時出発だなんて聞かされたらな」


 今日は一大イベントの開催日であり、愛好家であるヒナタの情熱はかなりのものだ。それは準備の良さというか、周到な用意にも現れている。大きめのリュックにはコスプレ衣装一式の他に、団扇にタオルにビニルシート、携行食料と水。他にも折り畳み傘やらスマホの充電池などが詰め込まれており、ちょっとした便利屋のようなラインナップだった。


 その一方、付き添い人でしかないケイゴはほぼ手ブラである。小さなショルダーバッグに財布を突っ込んだだけ。それ以外には飲みかけのペットボトルの紅茶があるくらいで、暇つぶしの文庫本すら忘れてくるという有様だ。


「ともかくさ。今日は楽しんでいってよ。向こうに着いたらケイゴ君もテンション上がると思うよ。ホントもう、お祭りみたいなもんだから!」


「お祭りねぇ。オレ、人混み苦手なんだよなぁ」


「うん、まぁ、それでも大丈夫だよ。大体のエリアは人だらけだと思うけど……」


 徐々に消え入るヒナタの言葉を、ケイゴはため息で払い除けた。雑踏に身を投じると頭痛を覚えてしまう彼にとって、楽しめる要素は少ないと言えそうだ。しかし、人混みが苦手だからと言っても、今の様な環境が好きかというとそうでもない。相変わらず無人としか思えない構内。先頭車両に乗り込むために、ホームの逆側を目指して歩き続けているのだが、依然として人影を見かけない。ここまで閑散としていると、それはそれで居心地が悪く感じられる。


「それよりもさ、腹へったな」


 会話が途切れた頃、重苦しさに耐えかねてケイゴが漏らした。するとヒナタは、良いものがあるよと返事を通路中に響かせ、小箱をひとつ突き出す。ブロック型の携帯食料である。とても馴染み深いパッケージが、見るものの舌にその味わいを思い出させた。これにはケイゴも、満面の笑みの割にと苦笑いで応じてしまう。


「朝早くに駆り出された挙げ句、こんなもん食わされるなんてな……」


「フルーツ味は嫌い? チーズ味もあるけど」


「そこじゃねぇよツッコミ所は」


「あぁそれと、全部はあげないよ。半分こだからね」


「分かってるつうの」


 互いに一袋ずつ摘まみ取り、揃って頬張りだす。甘味と渇きがひと時だけ重圧感を和らげてくれるようだ。ヒナタなどは鼻から唸り声にも似たものを鳴らし、機嫌の良さを辺りに響かせた。


 やがて1号車の乗り場へと辿り着く。依然として人影も物音すらも見つけられていないが、ケイゴは気にする事をやめた。どうせ電車に揺られて数駅も行けば都心であるのだから、嫌でも利用客と顔を合わせる事になるはずだ。あと10分と待たずに電車が来るだろう事は、電光掲示板から分かる。ダイヤは事前に調べた通りであり、遅延などは発生していない模様だ。肩を並べて2人だけの乗車列を作る。


 差し当たって話題も無くなり、ヒナタはスマホをいじりだした。公式HPに飛び、会場マップを眺めながら、今日の動きをシミュレートしているのだ。何やら小声で呟いている姿からは、小柄な少女が醸し出すとは思えない程の気迫が感じられた。こうなるとケイゴは話しかける事が憚られ、途端に手持ち無沙汰となってしまう。


(仕方ない、ネットニュースでも見るかな……)


 ブックマークしたサイトにアクセスし、記事を見ようとしたところ、ページにまで飛ぶ事はできなかった。503エラーに阻まれた為だ。内心で舌打ちをし、別のサイトに飛ぼうと試みた。まさにその時だ。


 不意に体が浮かび上がったと同時に、あらぬ方向へと吹っ飛ばされた。そのままホームドアにぶつかり、強烈な力で押さえ付けられる。まるで標本にでもされたかのように、胴体だけでなく全身までもが壁に張り付いて身動きがとれなくなってしまった。


(な、何だよこれ……!?)


 声は出せない。それどころか息を吸うことすら出来ず、肺に残された僅かな空気も吐き出されてしまう。脳は危険を知らせるように電気信号を強く強く流すのだが、指ひとつすら自由にならないケイゴには成す術がなかった。


(たす、けて……)


 どれだけそうしていただろうか。いつしか気が遠くなり、視界が徐々に狭まっていく。そして薄れ行く意識のなか、金属の激しく擦れ合う音を耳にする。しかしケイゴは、それが何なのか判別させることも叶わず、やがて瞳を完全に闇へと落とした。


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