巨大な壁、崩れ去る
「おいっ、やつらが門から入って来たぞ! あいつらも撃て! 撃て!」
片田は青筋を立てて、喚き散らす。
「ムリです、もう、撃てません」
野々村はゆっくりと立ち上がる。
「早く撃てってば! やつらがここに来るじゃないか!」
「撃てません」
「はあ? 何を寝ぼけたことを」
「じゃあ、ご自分で撃てばいいじゃないですか」
野々村はライフルを片田に渡す。
「オレにはもう無理です。これ以上、国民を撃てません」
「ちょ、待てって」
野々村は一礼すると、屋上から姿を消した。
片田はこわごわ照準器を覗いて見る。大勢が機動隊を振り切って、官邸に走り込んでくる。だが、とても引き金を引く気にはなれない。
「くそっ」
ライフルを置くと、階下に駆け降りた。
「おいっ、あいつらを中に入れないようにしろ!」
大声で指示を出しても、どこにも人の姿は見当たらない。警備員の姿も、部下の姿も。
「おい、三橋、どこに行った?」
執務室のドアは開け放たれていて、中を覗いても誰もいなかった。
そのとき、片田はようやく気付いた。
みんな自分を見捨てて逃げたのだと。
誰もいない館内に、自分の荒い息だけが響き渡る。
――まずい。オレも逃げないと。
そう思ったとたん、膝が震えだす。
――いや、まだだ。まだまだ。オレは、こんなことで、終わらんぞ。
そこに、どこかから歌声が聞こえて来た。
――この声は……。
足がもつれて転びそうになりながらも、導かれるように執務室に入る。
それは、デスクの上のパソコンから流れて来ていた。ライブ会場の動向を確認するために、パソコンでずっと動画を見ていたのだ。
ライブ会場の外のスクリーンに、レイナの歌う姿が映し出されている。つたないピアノを弾きながら、『小さな勇気の唄』を歌っているレイナ。
♪君に一つの声を聞かせよう
たった今
僕の胸の中に生まれた声を
君に伝えるために
僕はここにいるのだと思うんだ
その声が胸を激しく揺さぶる。
すべてを赦しなさい、と。
自分の過ちから目をそらすな、と。
そう語りかけているかのようで――。
片田はいつしかパソコンの前に座り、その歌声に耳を傾けていた。
焦りも怯えも怒りもすうっと消し飛んで、今、心の底から穏やかな気分になっていた。
片田は思い出していた。政治家を目指していた、若いころの自分を。
「今の政治じゃダメだ。自分が世の中を変えてやる」
「世の中をよくするには政治家になるしかないんだ」
周囲に熱く語っていた日もあった。鼻で笑われても、自分なら国を正しく変えられると信じていたのだ。
そんな正義感は、いつの間に、どこに消え去ってしまったのか。
もうずいぶん前から気づいていたのだ。鏡に映る自分の目が、果てしなくよどんでいることに。
――自分はどこで間違ってしまったのか……。
片田は唇を噛む。
――もう一度、やり直せるんだろうか。こんな自分でも。
一番が繰り返される。
♪君に一つの花をあげよう
それは勇気という名の花で
君の胸の奥で
決して枯れることなく
咲き続けていくだろう
決して枯れることなく
咲き続けていくだろう
「おいっ、あそこの部屋のドアが開いてる!」
「こっちだ、こっち!」
にわかに廊下が騒がしくなった。バタバタと大勢の足音がして、「あっ、いた!」と執務室の前で足を止める。
陸たちデモ隊が、息を切らして立っている。機動隊にもみくちゃにされて、傷だらけだ。
「片田っ!」
陸が一歩足を踏み入れると、とたんに「静かになさい!」と片田は一喝する。陸はビクッと足を止める。
「この歌が終わるまで、待ってなさい!」
その迫力に、陸たちは動けなかった。
レイナの声は、そこにいる人たちを包み込む。
もう争いはやめましょう。
もう、憎みあうのは終わりにしましょう。
そう語りかけているかのように。
やがて、『小さな勇気の唄』が終わると、片田はゆっくりと立ち上がった。
「私は内閣総理大臣だ」
陸たちはわずかに後ずさる。
「総理大臣として、最後の命令を出す――投票所を開ける。投票日は明日に振り替える」
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