運命が動き出す

 その日も、レイナはピアノの前に座っていた。

 蓋を開けて、鍵盤をいくつか弾いてみる。小さなくぐもった音がするだけで、タクマが弾いたような音は出ない。


 ――ピアノ、教わりたかったな。


 そのとき、「それは、君のピアノ?」と背後から声がした。


 振り返ると、銀髪で髪を一つに結んだ男性が穏やかな笑みを浮かべて立っている。タクマと同じ髪型なので、レイナは一瞬、ドキッとした。


 黒いコートは、いかにも高そうな生地で、染み一つついていない。

 ゴミ捨て場には、時折ボランティアの人たちが食料や洋服を持って来てくれるが、彼らとはまったく違う世界の住人であることは一目で分かった。


「ピアノ、弾けるのかな?」

 男性の問いに、レイナは軽く頭を振った。


「そう。誰が弾いてるの?」

「……タクマお兄ちゃん」

「そう。今日はいないの?」

「お兄ちゃんはもうこの世にいないの。ずっといない」

「そうか……」

 男性はゆっくりと近寄って来た。


「君の名前は、レイナって言うのかな? テレビで観たんだけど」

 レイナは警戒して身を固くした。


「ごめん、知らないおじさんに突然話しかけられて、戸惑うよね。僕の名前は、西園寺裕。作曲家をやってるんだけど、こんな曲、知らないかな」


 裕は低く渋い声で歌った。

 レイナはハッと顔を上げた。ラジオでよく聴く曲だ。

「知ってる……」

「そう、よかった。この曲は僕がつくったんだ」


「ピアノで?」

「そうだね、曲をつくるときはいつもピアノを弾きながらつくってる」

「お兄ちゃんと同じだ……。お兄ちゃんもピアノを弾きながら曲をつくってた」

「そう。タクマ君、だっけ。曲をつくってたんだ。どんな曲?」


 レイナは唇をキュッと結んだ。


 ――タクマお兄ちゃんのつくった大切な曲。知らない人になんか、教えられない。


 裕はレイナの顔をしばらく見つめてから、

「もしかして、タクマ君が弾いていたのは、こんな曲じゃなかったかな?」

と、レイナの背後から手を伸ばして、右手だけでピアノを弾き出した。


 それは、タクマがつくった「小さな勇気の唄」だった。タクマより、もっとなめらかで、美しい音。


 レイナは裕の指の動きに見入った。指が長く、滑るように鍵盤の上を動く。


 そのとき、「何してるのっ?」と、ミハルの声が響いた。見ると、鋤を持ったミハルが、裕を睨んでいる。


「うちの子に何する気? そこを離れてっ!」

 ミハルは鋤を刀のように構えた。裕は慌ててピアノから離れる。


「レイナさんのお母様ですか? 僕は、作曲家の西園寺裕と言います」


 ジリジリと近寄るミハルに気圧されながら、裕は自己紹介した。

「西園寺……?」

 ミハルは裕の顔を凝視した。

「もしかして、昔、グラミー賞を受賞した……?」

「そうです、ご存知でしたか」

 裕はホッとした表情になった。


「テレビでレイナさんの動画を観て、どうしてもご本人に会いたくて、ここまで来たんです」

「テレビで……」

 ミハルはようやく鋤を下ろした。


「この三日間、毎日テレビ局の人がここに来るんです。勝手にあちこち撮影して回るから、ホント、迷惑で」


「そうだったんですか。そういう事情とは知らず、驚かせてしまって申し訳ない」

 裕は頭を下げる。

 レイナはミハルと裕の顔を交互に見比べているしかなかった。


「今日は、お願いがあって来たんです」

 裕はミハルの顔をまっすぐに見た。


「レイナさんを一日、貸していただけませんか?」

「え?」

「レイナさんに、ライブにゲスト出演してほしいんです。陣内ヒカリという、今人気のあるアーティストのライブなんですが、そこで一曲だけ歌ってほしいんです」

 ミハルとレイナは顔を見合わせた。


「ライブって、何?」

 レイナの問いに、「大勢の人が集まる場所で、歌ったり演奏することよ」とミハルは教えた。


「そんな、いきなり大勢の人の前で歌えなんて言われても。この子を見世物にする気はありませんから」

 ミハルは強い口調で突っぱねる。


「見世物にする気なんてありません。僕は、レイナさんの歌声を聞いて、どうしてもステージで歌ってもらいたくなったんです。あの声は、多くの人を魅了する声だと思うんです。きっと、世界中の人が感動します」


 裕は慌てて弁明した。


「そんなこと、突然言われても」

「それなら、一度、うちに歌のレッスンをしに来ませんか? 私の家内はソプラノ歌手で、自宅で歌のレッスンもしてるんです。家内もレイナさんに会いたがっています。お母様も一緒に、一度うちまで来ていただけませんか?」


 ミハルは首を傾げて考え込んだ。

 レイナは裕の顔を黙って見つめていた。

 ――なんだろう。この人のことは、信じてもいい気がする。


「……分かりました。一度だけなら」

「そうですか? よかった」

 裕は顔を輝かせた。


「それなら、明日はどうですか? 明日、僕が迎えに来ます」

「随分急ですね」

「他の日でも全然構わないんですが」

 ミハルはレイナの顔を見てから、「分かりました。明日でいいです」と答えた。


 裕が帰る間際、ミハルはそっと、「あの子は、大好きだった人を亡くしたばかりなんです。ここから離れたほうが、ちょっとは気がまぎれるかもしれません」と、裕に耳打ちした。

 

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