幸福屋

伊月香乃

第一話 小さなお客様

『ハッピーエンド売ります』

 店主がこの看板を出してから約40年。一切宣伝をしないこの店はなぜか潰れない。地図にも載っていないこの小さな店がどこにあるのかは店主しか知らないが、ハッピーエンドを求める客には道は拓かれるのである。



 幸福屋、開店します。


──チリンチリン


 ドアの鈴が鳴った。


「いらっしゃいませ。ようこそ幸福屋へ」


 そっとドアを開けたのは、小さな手だった。


「あれ? ぼく、お外に出ようと思ったのに……」

「大丈夫ですよ。こちらへどうぞ」


 店主は少年を赤いソファへ案内した。


「さて、お名前は?」

「えっと、やまもと ゆうき。5歳だよ」


 にこやかに話しかける店主に、少年の警戒心はすぐに解け落ちる。


「では、ゆうき様。あなたは何をお求めにこちらへいらっしゃったのでしょうか?」


 にこやかに店主は問いかける。


「何を? んっと、どういうこと? ぼくお外に出ようとしてたの。おとうさんが忙しいからって絵本読んでくれないから。それでね、じゃあいいもんってお外に出たの」

「お父様は何か仰いましたか?」

「ううん、こっそり出て来たの。でもいいんだ。ぼくのことなんて誰も気づかないよ」


 目を伏せる少年に、どうしてですか? と店主は先を促す。


「あのね、もうすぐ産まれるの」


 ぼくのイモウト、とぎこちなく口を動かした。


「それでね、おかあさんは病院だし、おとうさんはお仕事かイモウトのとこに行っちゃう。二人とも『オニイチャンだから良い子にできるよね』って」


 少年は小さく鼻をすすった。


「ぼく、オニイチャンじゃない。ゆうきだよ……」


 膝の上できつく握った拳に涙が落ちた。


「おかあさん具合が悪いの。だからぼくが我慢しなきゃいけないの。でも、でもね……」

「なるほど、ゆうき様に必要なハッピーエンドがわかりましたよ」


 首を傾げる少年をよそに、店主はゆっくり立ち上がって店の奥へ消えた。すぐに何かを持って戻ってきた。


「なぁに、それ?」

「特別な絵本です。ご覧になりますか?」


 少年は、こくりと頷いた。


「これ──」


 そこにあったのは少年の物語しゃしんだった。1枚目は、母の大きなお腹と満面の笑み。2枚目は、顔をくしゃくしゃにして泣く産まれたての少年。3枚目は、母に抱かれて眠る姿。4枚目は、5枚目は……。


 ページをめくる度に成長していく少年の周りには、いつも少年の両親が寄り添っていた。


「これ、ぼく?」


 ええ、と店主は頷いた。


「これはゆうき様がご家族に愛されている証でもある特別な本です。ゆうき様はたくさんの愛を受けていらっしゃるのですね。産まれてくる妹さんもそうでないと寂しいでしょう? ただ新しい命が産まれるというのはとても大変なことなので、ゆうき様は寂しい思いをしてしまいましたね」


 それは我慢しなくてもいいのです、と少年に微笑んだ。


「ぼくもイモウト可愛がらなきゃだめ?」


 少年は不安げに顔を上げた。


「頑張る必要はありません。でもきっと、妹さんは、こんなに優しいゆうき様を大好きになりますよ」

「ぼく、帰らなきゃ──」


 少年は立ち上がった。


「この絵本はあなたのものです。どうぞ妹さんと続きをお創りください」


 店主はそのアルバムを少年に持たせて扉へ向かった。


「お帰りはこちらです。またのご来店、お待ちしております」


 ありがとう、と手を振る少年にきっちりと腰を折ってお辞儀をした。



──チリンチリン


 幸福屋、本日はこれにて閉店です。

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