第4話 ある運命との出会い




 深山真一みやま しんいちは、上諏訪かみすわ神社跡地での不可思議な邂逅であいの後、南へと向かった。理由はただ一つ、うまそうなにおいにつられてだ。先ほど死闘を繰り広げていたとはみじんも感じさせない、そんな足取りでずんずんと進む。そのもてる嗅覚のすべてを、独特のうまそうなにおいに向けて集中する。たどり着いた場所は、市営のキャンプ場だった。


 なみなみと水をたたえた湖が眼前に広がる。北の山々から吹き下ろす風に揺れる湖面が月の明かりを揺らす。まだ時間もそれほど遅くはないためか、いくつかのテント付近ではテーブルやコンロを囲んで談笑する声が漏れていた。


 それらの事を全く気にも止めずに、深山真一は一目散に一つのテントへと歩みを進めた。そこにあったのは……火にかけられた鍋、そしてその横で揺れる湖面を眺めている老人。しかし、それすらもこの男の意識には認識されていたかどうかあやしいものだ。この男の頭の中はすでにガラムマサラだかターメリックだかの独特のスパイスに犯されていた。


 つまり、鍋の中身はカレーだったのだ。


 そして、老人もこの男の気配に気がつき……一瞬息を止める。

 こんな夜更けにいきなりこの岩のような大男を人間だと認識できる者がいったい何人いることか。いや、至る所であがっている悲鳴にも似た声がすべてを物語っているかもしれない。


 熊がキャンプ場に紛れ込んだ、という声を。


 しかし、そんな声を気にもとめず、深山真一は老人に声をかけた。


「じいさん、すまないが……」

「なんじゃ? 熊に知り合いはおらんがのう?」

「ははは、こいつは手厳しいな。確かに向こうの方で熊が出たとか何とか騒いじゃいるが……な」

「おおかた察しはついておる、お主も心当たりがあろう?」


 老人の口ぶりに、深山真一はにやりと口元をほころばせた。それはまるっきりいたずらっ子の顔だ。おそらくこの程度のことはこの男にとっては日常茶飯事なのだろう。そう思わせるような、そんな仕草だ。


「じいさん、ただもんじゃねぇな。俺の名前は深山真一、あんたのそのカレーに誘われて出てきた熊だ」

「ふむ、ではわしも名乗るとしようかの。上月 源一郎こうづき げんいちろう、ただの料理人のじじいじゃよ」

上月こうづきのじいさん、か。じいさん、すまないが……そのカレーを食わせてくれないか? 頼む! この通りだ! ちなみに金は……ない」


 深山真一は自分のサイフがいつの間にやら無くなっていることに、この時初めて気がついた。だが、今はそれどころではない。

 今、この瞬間、一番優先しなければならないのは――最優先事項はカレーだった。


「いきなりストレートじゃの。そして正直じゃ」

「じゃあ……」

「じゃが、このカレーは孫のために作っておるのでな。くれてやるわけにはいかんのじゃよ」

「孫? じいさん、孫と一緒に来ているのか」

「ああ、今は小用で出かけておるが、明日の夜には帰ってくる」

「ってことはだ、じいさん。この深山真一、一生の頼みだ! 半分でいいからこのカレーを食わせてくれっ! このカレーは今食わないと一生食えないカレーだと俺の胃袋が確信しているっ! だから、頼むっ!」


 深山真一はその大きな体をぐわりと折り曲げ、土下座をし、カレーを食わせて欲しいと頼んだ。その姿は、まるでそこに大きな岩が突然出現したかのような、そんな光景だ。たかがカレー一つのために土下座までする巨漢。上月源一郎の長い人生の中でもこんな男は初めてであった。


「むぅ……そこまでされると、料理人としては食わせてやりたいのう」

「本当か?! じいさん!」

「じゃが、ただというわけにもいかん……」

「ぬぅ……」

「そうじゃな、ではこうしようか。深山と言ったな?」

「ああ」

「今度お前さんに会ったときに力仕事など頼む、というのではどうかな?」

「その程度ならおやすいご用だぜ! いいのか、その程度のことで?」

「かまわんさ。お主が思っておるより高くつくかもしれんがの」

「こちとら生まれつき体力だけは有り余ってるんでね、まかせなって。それより……」

「ああ、わかっとるよ。カレー、じゃろ?」

「フフフ、腹が鳴るぜ!」


 タイミング良く、深山真一の腹が鳴った。

 この男、腹の虫すら従えているらしい。

 欲望に忠実な男であった。



 数分後、きっちり一人分のカレーを残してそのほかのすべては食い尽くされていた。それだけでは飽きたらず、近隣のテントやバンガローにまで飯を分けてもらいに行く始末。なぜか皆、友好的に食べ物を差し出していた。


 時折聞こえる、熊が餌を!などという悲鳴じみた声には耳をふさいでおくことにしよう。


 そして、人心地ついたのか熊は……いや、深山真一は上月源一郎の正面に座り姿勢を正すと改めて礼を言った。


御馳走様うまかったぜ、じいさん」

「見事な食いっぷりじゃったの。それだけうまそうに食ってもらえるとは、料理人冥利みょうりに尽きるというもんじゃて」

「いや、本当にうまかった。こんなにうまいカレーを食べたのは生まれて初めてだ。しかもこんなキャンプ地で食えるなんて思いもしなかった、ありがとうじいさん」

「わしの方こそ、最後のカレーをお主のような男に食ってもらえただけでもありがたいと思わんとな」

「ん、最後? どういうことだ?」

「いやなに、わしももう年だしの。料理を作るのもこれを最後にしようと思っておったんじゃ」

「フム。でもよぉ、これだけのものを作れるんだ、まだまだ現役じゃねぇか? なんていうか……もったいねぇよ。自分で言うのもなんだが、これでも味に関しちゃちょっとうるさいんだぜ? その俺が満点をつけても足りないくらいのカレーなんだ、やめちまうのはもったいねぇよ。それにしても……じいさん、いったい何者だ?」

「ははは、これ以上褒めてもなんにもでんぞ? 食い物はすべてお前さんの腹の中じゃ」

「いや、俺は性格上嘘をつくのが苦手でね、嘘をつくと鼻の穴がふくらむらしい」


 そういうと、深山真一は鼻の穴をぴくぴくさせてみた。この男が言うと、ウソでも本当でもどうでも良いように聞こえてくるから不思議だ。こういうのが天性の魅力、というものなのかもしれない。


「ほれほれ、鼻の穴がふくらんでおるぞ? ははは」

「そうか? フフフ、俺もまだまだだな。ん? そうか、こうづき……じいさんもしかして、あの上月か?! あの伝説の料理人に出ていた!」

「……そうか、お主もあの番組を見ておったのか」


 そういう上月源一郎の顔が急に曇る。そして、その曇ったまなざしは揺れる木崎湖に向けられた。それは、ここで初めてこの老人を見たときの姿そのものだ。この姿をして、あのテレビ番組に出ていた人物と同じとはとうてい思えない。今、目の前にいるのは世捨て人のまなざしを持つ、ただの老人であった。


「確か、あの番組の中でじいさん言ってたな? 『今のわしがあるのは60年前に疎開先で出会った一人の少女のおかげだ』と。それが、ここ、なのか?」

「ほう。よく、覚えておるな。そのようなことまで」

「ああ、仕事柄関係のある話になったからな、ビデオで何度か見させてもらった」

「仕事……柄?」

「ああ、俺の名前は深山真一。民俗学を専攻している考古学者さ」

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