第8話 結局、僕は

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」


 僕たちは中庭まで全速力で走りぬけた。とりあえずここまで走れば安心だろう。いや、それ以前にあの九条先輩ならば、あの男をどうとでも出来るだろう。そこまで考えて僕は不意に疑問に思った。そういえば、九条先輩はあの男をどうするんだろう。警察に引き渡すのか、それとも?


 『魔』に汚染されてしまった人間の末路。そこに思い至ったとき、沈黙を守っていた彼女が口を開いた。


「いったいなんなの? 何が起こったって言うのよ……」


 いまだに赤く燃える学食棟横の林を見ながら、彼女は誰にくでもなくそんなことをつぶやいていた。僕はそんな彼女の疑問に応える言葉を探しながらも彼女の姿を見つめていた。彼女の上着はすでにぼろぼろで、今は僕の制服のジャケットを上から羽織っている。その綺麗な髪も少し黒くすすけているような気がする。


 そんな、彼女の両腕に抱えられるようにしている子猫が小刻みに震えていた。


――様子がおかしい?!

 そして、子猫のその姿を僕は『視て』しまう! それと同時にあゆの手から子猫を取り上げ、投げた!


「なにを――っ?!」


 今日の昼と同じように彼女の言葉を最後まで聞くよりも早く、僕は彼女を自分の背中へと隠す。それと時を同じくして、僕たちの目の前で『銀の光』に照らされている黒猫は、その身体を小刻みに震えさせ……産声うぶごえにも似た声をあげていた。


――ドクン!

 それは誰の心臓の鼓動だったのか。目の前の小動物だったものが、捕食者である肉食動物のソレに形を変える! 子猫だったソレは僕たちの見ている前で、まるでビデオ映像を早送りしたかのようなそんな勢いで、その姿を僕たちよりも大きな黒豹のようなものへと変貌させていた。


「ちび……ちゃん? どうして――何なのよ! これって!!」


 僕の背中で涙声で叫ぶ彼女。おそらく3時間前までの僕なら同じ事を叫んでいただろう、そんな台詞。そして、目の前の『ちび』だったモノは僕たちのことを間違いなく『獲物』だと認識している、そんな現実があった。


――グルルルルルル……

 目の前の捕食者は、獲物の品定めでもするかのように僕たちの周りをゆっくりと歩いている。その間も僕の背中の少女はあきらめることなく、捕食者に呼びかける。


「ちびちゃん、あたしよ! 忘れちゃったの? ねぇ……思い出してよ!」


 そんな悲しい声を無視するかのように捕食者は僕たちを睨みつける。そんな緊張の中、ピクンっと『ちび』だったモノの耳が揺れる。それと同時に男の声が響き渡った。


「もう、そこにいるのはあんたの知ってる子猫じゃないんだ。あきらめてくれ。大城戸あゆさん」


 僕はこの聞き覚えのある声に半ば驚くと、視線は『ちび』だったモノからはずさないで意識だけそちらに向ける。その声の主は平城山室長だ。そして、彼に向かってあゆは声を荒げて問いかける。


「いったいどういうことよ! だってさっきまで、あんなに小さくてかわいい子猫だったのよ? それが、どうしてこんなことに!?」


 そんな彼女の言葉に答えるためか、それともそれを僕に聞かせるためだったのか――平城山室長は話を始めた。


「こんな『銀色の月』が頭上に輝くときは、心の弱いものから『魔』に取り込まれていく。そして、その遺伝子レベルで最高の力が発揮できる形態まで肉体は変質し……記憶はそのままに理性だけが吹っ飛んだ状態になる。今、その猫だったモノが考えていることを言ってやろう。腹が減った、この姿を維持するには栄養が足りない、目の前に好きだったモノがある、おいしそうだ――おおかたそんなところだ。そして、動物ってのは――」


 僕は今日何度目かのヴィジョンを『視て』しまう。それは『ちび』だったものが動物の本能に従いこの中で一番弱いもの――あゆへと襲いかかる、そんな光景。


「危ないっ!!」


 僕は反射的にあゆをかばって抱きついた。


―――ズ、ダーーンっ!!

 僕が見たヴィジョンの変わりに聞こえたのは銃声だった。


「ちび……ちゃん?」


 その声を最後に意識を失い、体中の力が抜けていく、腕の中の少女。その触れている部分から感じる鼓動が、彼女が気を失っただけであるという事実を僕に教える。僕はゆっくりと後ろを振り返った。そこには、銃口からいまだに白煙を上げている拳銃を構えた平城山室長と、僕の足元で頭を打ち抜かれて動かなくなってしまった『ちび』だったもの。


「どうして……」


 僕は近づいてくる室長に非難の声を浴びせかける。


「どうして殺したんですか!? 何も殺さなくったって!」

「……お前さんだって『視え』たんだろ? 何を見たのかは知らないが、こうしなければどうなっていたかはわかっていたはずだ」

「でも……それでも、なにかあったはずだ! 殺さなくったって何か他に何か方法が! そうでしょ平城山さん! そうじゃ、ないんですか……」


 ただの八つ当たりで室長にこんなことを言っているのをわかっていながらも、言葉を留めることは出来なかった。あの時、室長が発砲していなかったら僕は今ここにこうして存在していないだろう。それでも地面に横たわっているもう二度と動くことのない『ちび』を見ていると、どうしようもなくやりきれない気持ちが心を満たしていく。


 そして、僕が抱えている折れそうなくらいか弱い女の子は、その『ちび』が撃たれる瞬間を見てしまった、ということは想像にがたくなかった。


 あゆは気がついたらなんて思うだろう?


 どれくらい悲しむだろう?


 そんなことが頭の中でぐるぐると回る。そんな僕の目の前で、『ちび』はきらきらと光る銀の粒になって空へと還っていった。その還っていく先は、今では真っ白にしか見えない、そんな小さな月。あの小さかった子猫がかえるにしても、あまりに小さな、そんなひつぎ。


 なぜかその小さな月は、にじんで、良く見えなかった。

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