第3話 ある家政婦の回想
チッチッチッ……。
時計の秒針が規則正しい鼓動を発している。
「そろそろ拓人さんが帰ってくる時間か……。夏休みなのに図書館で勉強だなんて。そうか、拓人さんももう高校生ですものね……」
掃除も洗濯も昼ドラもワイドショーも終わってしまい、昼下がりも下がりきった夏の日の午後。私はそんな独り言を口にしていた。手持ちぶさたに人を待っている時は、何かと独り言が多いものなのかもしれない。
そしてこんなことを考えているのもきっと今が穏やかな時間、だからなのだろう。こういう日は決まってあの日のことを思い出す。
あの日。
あの夏の日。
「あれからもう10年、か……」
あれから。
そう私がまだ7歳だった
想いにふけるように、私は静かに目を閉じた。
……。
…………。
あの日。
古都はこの夏一番の猛暑を記録した、観測史上2番目の暑さだったというあの日。そんなことをニュースで言っていた、いつもと変わらないはずのあの年。例年の夏であればさして気にもとめない、そんなありきたりなニュースでもあの年だけは特別だったから……。
だからそんな些細なことまで鮮明に覚えているのだろう。
あの年は、そう。大災害、が起きた年だから……。
――10年前。
あらゆるものを
猶予という名の限られた命の時間を。蝉はその声を誰に届けたいのだろう? その言葉を誰に伝えたいのだろう?
そんな文学少女じみたことを考えながら、私は残暑の厳しい夏の道を帰途についていた。
いつもの商店街。
いつもの路地。
いつもの角を曲がると古びた平屋建ての診療所へとたどり着く。
私はいつもの通りに勝手口の扉に手をかけ、中に入る。
静かだ。
今日は珍しく診察を待っている患者さんはいないようだ。私は待合室に人がいないことを確認すると、奥にいるはずの父に向かって声をかけることにした。
「ただいま帰りました、お父様。市街のけが人はほぼ収容できたようですよ」
「そうかご苦労だったな、
「今日は患者さん、いらっしゃらないんですね?」
「ああ。今日はわけあって臨時休業だ」
「臨時……休業ですか? なにかあったんですか?」
「……疲れているところ悪いが、少しこっちに来てくれないか?」
廊下の向こうの診察室で、父は顔だけこちらに覗かせながら、そう言った。
「はい。患者さん……ですか?」
私の家は古くから続いている医師の家系だ。そして父はこの古都で診療所を営んでいる。
あの事故――大災害のせいで、ここ数日はこんな町の小さな診療所でさえ、目が回るような忙しさだった。あれほどの事故が起きたにもかかわらず、今日まで外からの援助や復興支援は行われてはいなかった。
それは……それは、この大災害と呼ばれる事故の特異性によるものが原因だった。
事故。
某国の宇宙ステーション計画に利用されるはずだった巨大人工衛星の落下。放射性廃棄物となってしまった鉄のかたまりの、古都への直撃。死者数12万人を超えると見られているという、その被害。
これが事故の中心部、被災地への立ち入りを禁止されている私が知りうる情報のすべてだった。あまりにとりとめのない話で、何が本当でなにが嘘なのかすら私にはわからない。
ただひとつ確かなことは、たくさんの犠牲者が出たという事実だけ。
だから私は自分のできることを精一杯やる。命の限りに声をあげる蝉のように、今できることを。
そんなことを考えながら、父のいる診察室へと廊下を歩いた。
見慣れた診察室。
見慣れた診察台の上には、見慣れない男の子が寝かされていた。
どこにでもいるような小学生。それが彼の第一印象。特にどこかをけがしている様子も見られない、血色もよさそう……だ。
ただ、その男の子を見る父の目だけが普通ではなかった。怒りとも、悲しみともとれる……そんな
父にこんな表情をさせるこの子はいったい?
「この子がどうかしましたか? 患者さん、のようには見えませんが……?」
「うむ……」
やはりそれ以上、父はなにも話してくれない。ただ、その顔つきはより厳しいものとなって、眠る男の子を見つめている。
あたりを静寂が包み込んでいる。先ほどまではうるさいほどだった蝉の声も、今は聞こえない。私は父が口を開くまで待つことに決めた。
一分が過ぎ、二分が過ぎ……。
そして数分が過ぎた頃、父は何かを決心したかのように視線を私に移し、重々しく口を開いた。
「
「はい」
「……おまえの命を
私は……。私はとうとうこのときが来てしまったのだと、そう思った。
私の約束のとき。
私の絶対運命。
「それは……その子供がそうなのですか? その子が私の……」
「ああ間違いない。まさか本当にこの日がやってきてしまうとはな。すまない。私さえ……私さえしっかりしていれば! あいつだけでなく、お前までこんなことに!」
「お父様、その話はしない約束だったはずですよ」
「本当に……すまない……」
父はその大きな体をくの字に折り曲げ、私に頭を下げた。父のこんな姿は今まで見たことがない。あの大きかった父の体が、今はただ小さく見えた。
私は……。
ううん。私はこの子供のために、今まで生きてきた。そしてこれからを生きていくのだと、そう決まっていたから。私の運命は私が生まれる前からそう、決まっていた。
それが絶対運命。
私の命の猶予はこの子とともにある。だから私はそれをただ、受け入れるだけ。
それが運命だから。
私は……。
私は今、
それでも父は頭を下げたまま微動だにしなかった。
いつの間にか、また蝉が泣いていた。
周囲は蝉の声に満たされる。蝉の泣き声を聞きながら、思う。蝉は鳴くことしか……泣くことしかできない。私は自分の出来ることをなすべきことをするだけ。
ただ、それだけのこと。だから私は父に……いまだに頭を下げたままの父に声をかけた。できるだけ気丈に。力強く。なんの後悔もためらいも悲しみもない、と宣言するように。
「お父様、顔を上げてください。これは私の……佳乃の運命なのですから、お父様が気に病むことはないんです。ですからそのようなこと、なさらないでください」
父が顔を上げた。
その顔はくしゃくしゃになっていた。
顔というものはこんなにもしわを刻めるものなのか。このしわの一つ一つが私に注がれてきた愛情だったのかもしれない。そんなことを感じさせるような、そんな不思議な顔だった。
そのしわに涙がしみこんでいく。それは涙を貯えきれずに床にしみをつくっていった。こんな父を見るのはこれで二度目だ。
一度目は……母が他界したとき。
二度目は今、このとき。
だから……。
だから私は、命を落とすことになるのだろう。そして、私の中にはその覚悟もたぶん……ある。私が死んだとき、父はまた泣いてくれるだろうか? 泣いてくれればうれしいな。
私はいまだ眠っている男の子を優しく撫でながら、父の次の言葉を待つ。
蝉の泣き声は、鳴き声へと変わっていた。蝉時雨がやんだとき、父は表情を硬くして言葉を紡いだ。
「……
「わかりました、
「そして……これは父として、親としての願いだ……」
父の顔が、ふっと緩む。
「死なないでくれっ! 頼むっ!」
私の中の何かがぷっつりと音を立てて切れた。
「――お父……様……、おとう、さまぁぁぁっ!!」
わかっていた?
――嘘だ。
――――覚悟?
――――――そんなもの、あるわけ、無いっ!
自分自身をごまかしていただけ。ごまかさないと、逃げ出してしまいそうで……。逃げたところでどうにもならないこともわかっているのに。
それでも逃げ出したくて。決められた運命なんて信じられなくて。
でも……そんな勇気はどこにもなくて。
だから私は……。
私はただ、自分のなすべきことを精一杯やることしかできない。蝉時雨の後に残っているのがたとえ死であったとしても。それが自分の生きた証になると信じて、わたしは私の出来ることを。
――この子を、結城拓人を守る。それが、それだけが私の出来ること。
やるべきこと。逆らうことの出来ない、絶対運命。
ただ――。
ただ、今だけは……。
私は隣で眠る運命のことを忘れて……父の腕の中で
数日後、私とこの子……結城拓人は帝都へとむかう。
それが……。
そこにあるのが、あらかじめ決められていた未来だから。
…………。
……。
チッチッチッ……。
時計の秒針が規則正しい
…………。
……少しうとうとしていたみたい。
時計を見ると夕方四時を少し回ったところだった。
「拓人さん……遅いな。また寄り道でもしてるんでしょうね」
いつもなら夕食の支度を始める時間。けれど今日の夕食の買い物は二人で行くことになっている。まだ時間はありそう……か。
私は、もうしばらくこの
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