5 原稿用紙6枚

 養母の炊くご飯は、わたしにはやわらか過ぎる。でも、こんなわたしのために食事の用意をしてくれることだけでも、有り難い。

 養父は、すでに勤めていた会社を定年退職し、町のシルバー人材センターからの要請を受け、町にある郵便局で「警戒員」として働いていた。局舎の隣に局長の実家があり、局長のお母さんに気に入られ、局舎だけでなく局長の家の植木の剪定や、草引きなどの雑務のために、警戒員の仕事のない日にも駆り出され、本来の役目より多い日当をもらって喜んでいた。

 養父母は、昔は神戸に住んでいた。会社が播磨町に新しい工場をつくったことに伴って養父が転勤することになり、こちらへ越してきた。しかし、家から職場まではかなりの距離があり、酒ずきの養父は車の免許を取らず、養母は養父の仕事への送迎のために、家をあけるわけにはいかなかった。母は、わたしが幼いころには、よく内職をしていた。折り紙やレターセットなどのファンシー文具がバラバラに、段ボール箱で届けられ、それを店先に出せる形に、あるものは糊づけをし、あるものはセロファンの袋に詰めた。たまに間違った形のボタンを見つけると、養母はわたしにそれをくれた。何に使うわけではないのに、養母とのあいだだけの隠しごとができたみたいで、とても嬉しかったことを覚えている。

 実家に帰ってからのわたしは、『STAR TREK』のドラマによってSF、ひいては理系への興味が蘇えってきて、高校時代になぜだか――本当になぜだかさっぱりわからない――強く関心を持った、気象予報士試験の勉強を始めた。資料を集め、通信教育を受けていた。

 眠りたいときに眠り、起きたいときに起き出し、見たいテレビをなんとなく眺め、気が向いたら勉強をして、日々を過ごした。たまに、大学時代の友だちで大阪に住んでいる子から、舞台を観に行かないかと誘われた。そのときだけは出費を惜しまず外に出た。

 大学時代に一度舞台に立ったことがあった。それ以来、観劇することは大切な趣味になった。舞台に上がることに挫折し、あるいは執着できなかったわたしは、立っているだけでも汗が流れ出る熱い舞台で演じる人たちに、敬意を持っていた。その思いは「今」でも変わっていない。

 六月半ばのある日。珍しく朝十時に目が覚めた。わたしにしては早い。その日一本目のたばこに火をつける。外では梅雨の走りの雨が、しとしとと降っている。

 養父は警戒員の仕事に行くと、前の夜、食事のときに言っていた。

 寝起きのぼんやりした頭に、ニコチンがしみ渡る。活性化されてきた脳の部位が、少しずつ記憶を浮かび上がらせて来る。

 小説を書く方法を学ぶために、わざわざ大阪芸術大学へ行かせてくれたのに、舞台に手を出したり、アルバイトばかりしたりしてほとんど勉強をせず、留年こそしなかったものの、結局もう小説も書かなくなっている。わたしが過ごしやすくなるためにと、家の二階を改修してくれたのは、わたしが高校二年の冬だった。

 なのに、大学へ通うために羽曳野(はびきの)市で一人暮らしすることを許してくれて、仕送りも欠かさずしてくれたうえに、アルバイトでわたしが体を壊しかけたと電話で泣いたら、養母は翌日、わざわざ電車を二時間半乗り継いで、羽曳野まで駆けつけて来てくれた。

 結局わたしが大学時代で覚えて帰ってきたことといえば、たばこを吸うという悪い習慣と、下宿の近所の小さなビデオ屋のおじさんから教わったさまざまな味覚と、観劇の楽しさと。その程度のものだったような気がする。堅めのご飯が美味しいと知ったのも、そのビデオ屋のおじさんの影響だった。

 そうして大学を卒業し、実家でフリーターをしながら近畿郵政省の試験に合格したときも、わたしは親には内緒で、勤務希望地に「大阪府」と書いた。実家には一年いただけで、わたしはまた大阪に戻った。

 勝手ばかりしてきた。

 たばこは根本まで吸う。百円ショップで買ったガラスの灰皿で、火をもみ消し、部屋を出る。

 階下には、仕事に出ている養父の姿は、もちろんない。玄関の扉から外が透けて見える。車がない。母は買いものにでも出かけているのだろう。

 七十に近い養父が、まだまだ元気で喜んで働きに行っているというのに、十一月で二十七歳になろうという娘のわたしは完全に引きこもっていて……不甲斐なく、情けない。

 ようやく、混乱の正体がなんとなくわかってきていた。それは、「自分」の遺伝子の半分が、鬼か悪魔か、ともかく得体の知れない何かで形成されているという、自分への不信感だった。どうやって修復すればいいか、わからない。阪神・淡路大震災を引き起こした活断層が、「野島(のじま)断層記念館」として保存されているように、いったん壊れてしまった「地盤」は、永久にその痕を留めるよりほか手立てはないのだろうか。

 しかし、自分への信用を失ったわたしは、地面の割れ目に挟まって、ときが経つにつれてはるか地底へと、心が堕ちて行くばかりで……這い上がる気力はない。

 二階に戻る。

 部屋の扉をあける。

 と。

 明るい部屋が広がっている。雑多な自分の部屋ではない、が、惰性で、足を踏み入れる。

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