はじめてのはんざい

 周囲を林に囲まれた湖のほとりに、ポターヌ家の別荘はぽつんと建っている。ギラムはその対岸で、標的が来るのを待ち構えていた。時刻は午後二時前後。昼下がりの太陽が、辺りを明るく照らしている。


 湖から二十歩ほど離れた木の陰に隠れて、ギラムは円形の湖を見渡した。湖畔を四つに区切るとすれば、ギラムがいるのは北岸に当たる。地面をうっすらと覆うのは、高さ十五センチに満たない常緑草。他に目立ったものはない。おかげで見通しがよく、湖の様子が手に取るようにわかる。


 南岸にはポターヌ家の別荘。そこに標的のソフィアがいる。彼女は昼食を食べた後、湖岸を一人で散歩する習慣があるらしく、ギラムはその時を待っている。


 ソフィア本人から聞いた話によれば、彼女はいつも同じルートを歩く。別荘を出て、西岸を経由して北岸へ。その後、来た道を引き返して別荘に戻っていく。東岸を通らないのは、林が水面の際まで迫っており、人が通れる道がないからだ。行動パターンが決まっている分、ギラムとしてもやりやすい。


 準備は整っている。しかし、ギラムの心臓は早鐘のように打っていた。なぜなら犯罪初心者だから。「標的を静かに待っているだけで本当にいいのか?」などと、余計なことを考えてしまう。何もする必要はないのに、何かをしなければならないような奇妙な義務感が湧いてくる。


 手を動かしていないと落ち着かない。ギラムは革袋に手をつっこみ、持ってきた道具を入念に確認し始めた。本日五度目の持ち物確認だ。


 ギラムが用意したものは三つ。ハンカチ、長いガーゼ、銀製のナイフ。肌が金属に直接触れるのを避けるため、ナイフの柄の部分にはシルクの布が巻いてある。


 問題ない。今のところ何の問題もない。安心してギラムが顔を上げると、対岸の別荘からソフィア・ポターヌが出てくるのが見えた。


 慌てて木の陰に身を隠すギラム。ソフィアは軽やかな足取りで、デルフィニウムのような背の高い花が群生している西岸に、歩を進めた。やがて、花がソフィアの姿を覆い隠し、ギラムの視界から彼女の姿が一時的に消えた。


 緊張でいっそう鼓動が高まるのを感じながら、ギラムは待った。ソフィアはまだ現れない。ギラムは湖畔の花畑を、注意深く凝視した。西岸を埋め尽くす紫色の花が視覚と嗅覚を刺激する。剣のように尖った花びらが両目に焼きつき、甘い香りが鼻孔をくすぐる。


 ソフィアは一向に現れない。時が止まったような錯覚を起こしかけたその時、人間の背丈を優に超える花々の間から、ソフィアが勢いよく飛び出してきた。鼻唄を歌いながら、小走りで岸辺を駆けていく。


 身を引き締めるギラム。木の陰からチャンスを伺う。ソフィアは南岸にたどり着くと、水際に近づき、身をかがめた。湖の中を興味深そうに観察している。


 背中をこちらに向けている今がチャンスだ。ギラムは林の中を移動し、ソフィアに接近した。彼女は相変わらず、水中を眺めている。色白の手で冷たい水を触り、無邪気な笑い声をあげている。


 水辺に座るソフィアと林に身を隠すギラム。その距離は約二十歩まで縮まっている。これ以上近づくためには、木の陰から姿を出さなければならない。ギラムは意を決して、犯罪への一歩を踏み出した。足音を消し、慎重にソフィアへと近づいていく。


 一歩、二歩、三歩。ソフィアは振り返らない。四歩、五歩、六歩。ソフィアは水面から手を放した。七歩、八歩、九歩、十歩、十一歩。ソフィアが立ち上がった。


 十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八。ギラムは駆け足で近づくと、露出したソフィアの肩に、鋭利な牙を食いこませた。


 か細く短い悲鳴があがる。数秒間の吸血の後、ソフィアの体はぐったりと崩れ落ちた。ヴァンパイアの牙から分泌した唾液が、彼女の意識を奪ったのだ。麻酔と同じ効果を持つ液体が血管を駆け巡り、ソフィアは眠りについた。一、二時間は目を覚まさないだろう。


 一方。新鮮な生き血にありつけたギラムは、人目もはばからず歓喜の雄叫びをあげた。両腕を振り上げ、太陽の光を一身に浴びる。


「うまーい! 吾輩、幸せーっ!」


 そして、今が犯罪行為の真っ最中だということを思い出し、我に返った。


「今の大声、誰にも聞かれてないだろうな……」


 幸い、周りに人はいなかったようだ。気を取り直して、仕事を続けるギラム。牙から滴り落ちる鮮血を、ナイフの刃につけていく。


「これで凶器はごまかせる」


 シルクを柄に巻きつけたナイフを、ソフィアの傍らに置く。刃にはべっとりと……とまではいかないが、ほどほどに血が付着している。初心者らしい適当さで、ギラムは偽装工作を終えた。


 普通の犯罪者なら、このまま家に帰るところだが。


「次は、傷口の手当てだな」


 ギラムは持ってきたハンカチを湖の水で濡らすと、それを使って肩の傷を拭いた。それからガーゼを手頃な大きさにちぎり、傷口に当てて、応急処置を施した。これは偽装工作ではなく、ギラムの優しさである。ソフィアには何の恨みもないので、これぐらいするのは当然だと、ギラムは本気で思っていた。


「傷口は清潔にしておかないと、病気になるからな」


 ガーゼを巻きながら呟く。ちなみに、凶器の牙にも気を遣っていて、城を出発する前に、鏡の前で歯を磨いている。


「これでよし!」


 余ったガーゼと濡れたハンカチを革袋に戻す。地面に横たわるソフィアと凶器に見せかけた短剣を放置し、ギラムはその場を離れた。片道二時間の道を歩いて、我が家に帰る。太陽はまだ高く、光を遮る雲もない。ヴァンパイアの仕業だと考える人間は、誰もいないだろう。


 居城に帰り着くと、いつものようにグレゴーリーが出迎えてくれた。


「珍しいですな。昼間にお出かけですか」


「ああ。たまには日光を浴びたくなってな」


「それは良いことです。太陽は万物の親と言いますからな」


 上機嫌に笑いながら、グレゴーリーは仕事に戻った。胸をなでおろすギラム。午後の外出について、突っ込んだ質問をされるのではないかとドキドキしていたのだ。ギラムは革袋をその辺に放り出すと、いつもの肘掛け椅子に座った。そして夜が来るのを待った。


 数時間後、日が沈んだ。時間だ。日没と同時に出発すると、ポターヌ家には伝えてある。約束は守らなければならない。それが貴族の嗜み、というか一般常識である。


 城を出る前、ギラムは十字架を手に取り、神に祈りを捧げた。


「どうか、吾輩の犯罪がバレませんように!」


 そのまま、玄関へと向かう。見送りに、グレゴーリーが現れる。


「忘れ物はございませんか?」


「大丈夫だ」


「今日は朝から活動しておられるわけですから、無理はなさいませんように」


「心配ない。今日の吾輩はいつになく元気だ」


 血を吸ったおかげでな! とギラムは内心ほくそ笑み、闇が広がる夜の世界に飛びこんでいった。

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