僕を刺激しないものなど、この世には一つもないのだ

 海と空と大地。


 動物と魔物と人間。


 植物と物体、その他ありとあらゆる全てのもの。


 有力貴族の息子ウィリアム・ディックは感じていた――万物は性具であると。 

 

 ディック家の領地、屋敷とは別に建てられた彼専用の書斎。部屋の中央には巨大なベッドが鎮座し、その周りには怪しげな器具が色々と散らばっている。書斎の名にふさわしいのは、部屋の南西角に置かれている二列三段の本棚だけだ。


 その本棚に何が納められているのか――貴族の教養に欠かせない神学書や哲学書の類い、男女の裸体を描いた画集、魔物の生態を挿絵入りで紹介した『魔物大全』、ウィリアム自身が製作した『性交標本』――などである。


 ウィリアムは本棚から一冊の標本を取り出した。表紙には手書きのヘタクソな文字で「ハーピー」と書いてある。彼はその文字を見て、興奮した。ハーピーのことを思い出してというより、「ハーピー」という文字そのものに興奮した。標本のざらざらした手触りと、表紙の茶色にも快感を得た。


 ウィリアムは人間だが、性の魔物である。彼の全身並びに全感覚が性感帯なのである。


 彼の一日は、窓から射し込む光に視覚を刺激され、朝日に欲情するところから始まる。続いて、身体を覆うコットンの感触に淫らな欲望を抱き、森の方から聞こえてくるコマドリの泣き声に陶酔する。就寝時刻になるまで、ずっとこんな調子だ。もしかすると、夢の中でも〇〇しているかもしれない。彼の〇〇〇は、いつでも〇〇〇で〇〇が止まらない。


 ウィリアムはベッドに寝転がり、標本を開いた。一ページにつき一枚、ハーピーの羽が挟んである。羽の下には、持ち主の名前が記されている。ウィリアムが関係を持った、被害者たちの名前が。


 ウィリアムは何にでも興奮する。しかし、彼にも好みはある。


 ウィリアム・ディックが情欲をそそられるものランキング第三位、人間の男の子。


 ウィリアム・ディックが情欲をそそられるものランキング第二位、成人女性。


 ウィリアム・ディックが情欲をそそられるものランキング第一位、ハーピー。


 莫大な財産と親の権力を盾に、彼はハーピーへの強姦を繰り返した。誘拐、脅迫、警察騎士の買収――ウィリアムにとっては簡単なことだ。


 しかし、犯すだけではつまらない。事を終えたあと、ハーピーの翼から羽を一枚だけむしり取るのがウィリアム流だ。彼はそれを『性交の証』と呼び、標本を作った。それが『性交標本(ハーピー版)』である。


 広いベッドの上を転がりながら、ウィリアムは標本を眺めた。卑猥な思い出が追想され、性欲がたぎってくる。そう、これは一種の前〇なのだ。本番に臨むための、神聖な儀式なのだ。


 ウィリアムは待っている。ハーピーが来るのを待っている。過去に一度寝たことのあるハーピーが、もう一度〇〇〇〇したいと言ってくれた。向こうから誘ってきたのは初めてだ。彼の頭は淫乱な空想で満たされ、ハーピーが〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇ことを期待した。


 そろそろ約束の時間だ。ウィリアムが標本を閉じた時、どこかから羽音が聞こえてきた。間違いない、ハーピーだ。


 標本を枕元に放り投げ、ベッドから立ち上がる。書斎の近くに、ハーピーが降り立つ気配がした。相手が胸に飛びこんでくるのを期待し、ウィリアムは両手を広げてスタンバイした。


 書斎に一つしかない扉が開く。現れたのは、約束していたハーピーとは別の、見ず知らずのハーピーだった。


 まともな人間なら、ここで警戒心を抱くだろう。「誰だお前?」「何者だ貴様?」そんな言葉が口から出てもおかしくない。


 では、まともでない人間の代表格、ウィリアム・ディックがどう反応したかというと、


「君って…………猥褻だね!」


 初対面の、会う約束をした覚えのない、赤の他人である、完全な不法侵入者に、率直な感想をぶつけた。ウィリアムの中では、初めて会った生き物に対する挨拶は「はじめまして」ではない。


「官能的ですね」

「早速、ベッドに向かいましょう」

「君って、猥褻だね」


 この三つを時と状況に応じて使い分ける、それがウィリアム流紳士道である。結果、たいていの人間や魔物は即座に逃げ出すのだが。


「お前がウィリアム・ディックだな」


 ハーピーは恐れる様子もなく、変態貴族を睨みつけた。怒りに燃える双眸、敵意むき出しの尖った声。今にも相手を殺しかねない、危険なオーラが漂っている。


 ウィリアムはそれを「加虐性愛の現れ」と解釈した。


「あん! あん! 君って手早いんだね。到着して早々、いきなり始めちゃうの!?」


「お前はハーピーを見境なく犯し、心に深い傷を負わせた」


「昔の過ちを非難する系の口撃!? うーん! 僕、傷つくうう!」


 互いが互いを無視する形で、会話は進行する。


「よくも仲間と妹を傷つけたな。絶対に許さない」


「やめてええええ! それ以上言われたら、僕、興奮して死んじゃうよおおおお! まだ君に触ってもいないのに、ここで燃えつきたら一生の不覚っっ」


 今まで経験したことのない強烈な刺激が、ウィリアムの胸に与えられた。ハーピーの鉤爪が彼の心臓を貫いたのだ。


 感覚が交錯する。朦朧とする意識、壮絶な痛み、体の内側で増殖する血液の粘り気、快感、全身の脱力、混濁する記憶、快感、心臓に触れている鉤爪の感触、快感、快感、快感!


 至福の時間は瞬く間に過ぎ去り、ハーピーが鉤爪を引き抜くと、ウィリアムは顔から床に倒れた。彼は心臓を刺されてもなお「これは一種のプレイなんだ」と頑なに信じていたが、死が目前に迫ったことで、ようやく真実を悟った――自分はハーピーに殺されかけている――。


 足についた血を、ウィリアムの服で拭うハーピー。彼女の計画は順調に進んでいた。妹にウィリアムと会う約束を取りつけさせ、所定の日時に書斎にいるように仕向けた。そして妹の代わりに書斎に行き、ウィリアムの心臓を鉤爪で刺した。今のところ、何一つ問題は起きていない。


 妹には、殺人のことは隠してある。これ以上ハーピー仲間に手を出さないでくれと説得するという建前で、妹の協力を得た。妹は何も知らないし、何の関わりもない。自分の勝手なわがままに、巻きこむつもりは毛頭ない。


 ハーピーはウィリアムの体をまたぎ、書斎を歩き見た。特に目的があるわけではなかった。計画を完遂する前に、少し息抜きをしようと思っただけだ。心が落ち着いたら書斎を出て、次の行動に移るつもりだった。


 ――だが。変態というのは死んでも迷惑をかける生き物らしい。ウィリアムの残した置き土産が、彼女の予定を大きく狂わせることになる。

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