凱風来たれり
細川たま
第1話 刹那主義万歳
僥倖はあるだろう。しかし、偶然はない。勝つことにおいては。勝った者で、偶然を信じていた者は1人もいなかった。》悦ばしき知識より抜粋。
ごきげんよう。読者諸賢は上の言葉について、何らかの知識を持ち合わせているだろうか。世にはびこる、一部の井蛙にはこれは分かるまい。忸怩して然るべきである。しかし、知恵ある読者諸賢ならばきっと分かってくれていることであろう。そう。これは哲学者ニーチェの言葉である。彼の、正鵠を射る剛毅たる言霊は、一体どれ程の人間を叡知に導いただろうか。その言葉は、低俗な集合知とでも言うべき常識が、不正解なのだと示している。私もまた、彼の思想に感銘を受けた一人であった。
私は論語読みの論語知らずでは、断じてない。ニーチェの教えの大半は実行してきたつもりだ。そして目指したのだ。彼が予言した、超人に。だがある時、私は気付いた。周囲の人間が、私を遠ざけていることに。その事実は、私の匪石の心をもってしても受け止めがたいものであった。かくして、私による超人的事業は終わりを迎えたのである。
気は心とは言うものの、私は未だに納得がゆかない。なぜ正義が紛い物に淘汰されねばならなかったのか? とにかく、凡人らは一様に常識に縛られ、さらにはあるべき生活を営む気など毛頭無いらしかった。俗世は嘘で出来ているのだ‼ 一体反俗で何が問題なのだろう。
しかし、そんな反骨心はやがて薄れていった。しまいには、あれほどニーチェ論に心酔していたのが、まるで夢だったみたいにきれいさっぱり払拭された。果たして私は体たらくな刹那主義者へと身を落としたのである。下山したツァラトゥストラさながらに活動した分の反動が、きっちりやって来たようだ。凡人の領分から逸脱したのだ。度し難いことに、かつて苦学生であった私は、今ではさっぱり無為徒食の生活を送っている。しかし、なけなしの貯金を工面し、かろうじて大学には通えていた。
さて、私には恋人がいない。これは大問題であると同時に、致命的な死活問題だ。私は料理が作れないので、従って、食費がかさんでしまう。これを解消するには、料理の達者な、家庭的な女性を伴侶に迎えるほかなかった。
ニーチェ哲学の神髄は行動力にあった。しかし今の私はと言うと、行動力とはかけ離れた領域にいる。これは実に由々しき事態であるが、遺憾にも、如何ともしがたいのである。
私は、下宿している「板垣荘」の狭い六畳半の部屋で、ささやかな惰眠をとっていた。部屋には本棚がいくつも並んでおり、その本棚に沢山の本が収納されている。とは言っても、大半がニーチェにまゆわる著書である。私は平生、これらの本の中から適当に選んだものを手にとって読んでいる。
大学へ赴くと、私の学友たちは、私が滑稽ものであるかの様な視線を送り、こぞって私をニーチェと呼ぶ。別段彼らは法に抵触している訳ではないから、私の方からは何も言わない。寧ろ、ニーチェの名で呼ばれることは名誉であると心得ている。それは熱の冷めた今でもである。
「よう、ニーチェ」
「何だ、みずのえ」
私をニーチェと呼ぶ学友の1人。みずのえ瑛大だった。どんな会話も、こいつが介入するだけで低次元になってしまう。恐ろしい才覚の持ち主である。因みに、みずのえは壬と書く(以後、壬と表記する)。
「お前、ニーチェにはもう興味ないのか?」
「そうだな。心酔も行き過ぎてしまって、かえって生きにくくなったからな。今はそれよりも大切なものがある」
「なんだ。女か? それとも他の趣味でも見付けたか?」
「前者だ。私はいま、愛情のこもった料理を垂涎の的としている」
隠すのも馬鹿馬鹿しいことなので、壬に包み隠さず胸中を吐露した。
「サークルに入れば出会いは自ずと見つかるさ」
「なんだ、勧誘か? そういったところで、私はお前の所属する自転車サークルには入らんがな」
私が嫌味たらしく言うと、壬はムッとした顔で
「競輪サークルだからな」
と声高に訂正した。
「悪いがそんなものに興味なぞない」
「違うよ。そうじゃない。俺はね、何でも良いから新しいモノを始めてみろと言っているのさ」
この無鉄砲で独善的な男から、まさか忠告を聞けるとは思っても見なかった。
「はあん。それで。執念いお前の事だから、きっとオススメだの何だのがあるんだろうね」
「おうとも。それがさ、面白かったり、謎が多かったりの集団がたくさんあるんだよ」
「へえ。聞かせてくれよ」
きっと続く。
凱風来たれり 細川たま @hosokawatama
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