Chapter-3.主神

第7話 ナイラ

 数秒の沈黙。アイラが不安を覚え始めた頃、オルフェは冴星のような目でじっとアイラを見ると小さく首を振った。

『悪意あるものではない……が、こればかりは私の一存で決める訳にはいかない』

「! え……」

 オルフェでは決められない。ならば誰が決めるというのだろう。両手をきつく握り締めて続く言葉を待つアイラに、オルフェは宥めるようにゆっくりと告げた。


『ナイラを喚べ』


 ナイラ。幼い頃に一度聞いたきりの邪神の名。アイラの本当の系図に連なっている、破壊と創造の神。主神になるはずだった方。

「喚ぶ、って……私に喚べるんですか?」

 ナイラに関する持ちうる限りの情報を思い起こしながら、アイラは半信半疑で尋ねた。血縁上の直系ではあるものの、浄化を避けて生きていたアイラは他のヴィヨンとさほど変わらない暮らしをしていた。ナイラの神殿の場所も知らなければ鍵となる性質もしらない、本人にも配下にも会ったことがない。実質赤の他人なのだ。それが今更どう呼びかければいいというのだろう。訝るアイラにオルフェは『心配ない』と笑った。

『ナイラの配下は気配を断ってお前を見守っていた。信じて呼ぶが良い。……ただし、ここではなく外で』

 邪神も光神も、他の神の領域には立ち入らないのが暗黙の了解だという。アイラはひとつ頷くとそっとオルフェの翼に触れた。

「オルフェ様、ありがとうございます」

『ああ』

 きちんと礼をした次の瞬間、どこからともなくあの笛の音が聞こえてきた。今度はあの時と違い、郷愁のような温かさと物悲しさを感じさせる簡素な曲。音に合わせて世界がゆらゆらと揺らめき、少しずつ周囲の景色が戻ってくる――。



 ふと気がつくと、アイラはクリスタルを手に湖の縁に立っていた。脇にはトロンが控え、エメラルドの瞳でじっとアイラを見つめている。

「あ……えっと、」

 そういえば、オルフェと面会したあの場にトロンはいなかった。アイラは急いでオルフェの言葉をまとめ、トロンに伝える。

「悪意はないけど一人では決められないって。私の祖と相談するようにって言われたわ」

 わずかな沈黙の後、頭の中にゆっくりと雲がたなびき始めた。光を受けて幾重にも色を変えながら、美しく流れていく雲。そこから静かな安堵と満足感を感じ取って、アイラは微笑むとさらりとトロンを撫でた。それからクリスタルをポケットに戻し、湖から離れる。

「さて、ジェナが戻ってくる前に済ませちゃおうか」

 アイラの呟きにトロンは大きく頷くと少し離れた位置に控えた。アイラは目を閉じ、浄化前の暮らしを思い浮かべる。学校に行ったり刺繍をしたり魔力の訓練をしたり……友達こそいなかったものの、本当に普通の、平凡とさえ言える生活だった。それを、ずっと見守ってくれていた。

(私の祖、父である神)

 姿も声も知らない。浄化を避けるため、名前を呼ぶことすら許されなかった。アイラはずっと"ヴィヨン"だった。

 不満はなかった。マナの愛はすべての民に平等に注がれ、彼女に仕える大巫女たちも弾くことなく受け入れてくれた。マナに対する親愛の情はアイラの中にしっかりと息づいている。

  ――それでも。

(私の主神は、あなたです)

 心のうちで呟いた瞬間、両手がぶわっと温かくなった。その手を空に差しのべ、アイラはありったけの想いをこめてその名を呼ぶ。


「ナイラ様」


 次の瞬間。


『――やれやれ、待ちくたびれましたよ』


 退屈そうな、それでいてどこか笑みを含んだ声が響いた。何もない空中から小麦色の豹が飛び出し、深紅の瞳でアイラを見つめて頭をすり寄らせる。アイラはためらいながらも手を伸ばし、そっと豹の毛並みに触れて尋ねた。

「あなたが、ナイラ様ですか……?」

 すると、豹はきゅうっと目を細めて小さく頷いた。嗜虐的なその表情にアイラは息を飲んで体を硬くする。そんなアイラを見てナイラは楽しげにくすくすと笑いをこぼした。

『嫌ですねぇ、我が子を取って食ったりしませんよ』

 その声は驚くほど朗らかで、アイラはくるりと目を見開いてナイラを見つめた。闇を抱いたルビーの瞳に無防備な顔のアイラが映っている。

(そうは言っても……優しいのにすごく冥い目……。怒らせたら一瞬で消されちゃいそう)

 そんな事を考えていると、ナイラは尻尾でぱしりとアイラを叩き、少し拗ねたように呟いた。

『貴女、主神を何だと思ってるんですか』

「うっ……ごめんなさい」

  痛いところを突かれたアイラはしゅんと項垂れる。反省していると、ナイラは満足そうに尻尾をぱしぱしとアイラにぶつけた。そのままちらりとトロンに視線を流し、薄く笑って尋ねる。

『……それで?用があるから呼んだのでしょう?』

「っ、はい!実は……」

 姿勢を正してナイラに向き直り、アイラはオルフェに話した通りに事の次第を説明した。ナイラは尻尾をゆらゆらと揺らしたりアイラの腕に絡めたりしながら話を聞き、最後にきょとんと首を傾げて言う。

『何も問題ないのでは?』

「えっ」

 てっきり何か言われると思っていたアイラは拍子抜けしてナイラを二度見した。そんなアイラにナイラはますます深く首を傾げて問う。

『だって貴女、それと友達になりたいんでしょう?』

「!!!」

 ――なんで、それを。

 誰にも告げた覚えのない思いを言い当てられ、背筋がすっと寒くなる。

 ジェナと友達になりたいと、確かに思っていた。あの子となら人間の友達になれるかもしれない、と。でも、駄目だったら?もしも拒絶されてしまったら?きっとその時立ち直れないから、だから言うつもりなどなかったのに。

「……お見通し、なんですね」

  呟くと、ふっと心が軽くなった。ナイラとしっかり目を合わせ、アイラは微笑んで宣言する。

「私、ジェナを連れていきます」

 ナイラの目がきゅうっと細められる。楽しげな声がそれに答える。

『ええ。精々頑張ることです』

 どこか挑発的なそれは彼の癖なのか、アイラを見る眼差しは言葉に反して柔らかい。ほっとしたところでどこからか足音が聞こえてきた。

『おや、時間ですか』

 ナイラは耳をぴくりと動かし、音の方へ視線を向けて尻尾を揺らす。軽やかに駆ける足音はぐんぐん近づいてきて、アイラは慌ててナイラを隠そうと手を広げた。そんなアイラを見てくすりと笑うと、ナイラはとん、と地を蹴って宙に浮いた。耳に心地よい中性的な声が柔らかく告げる。

『また会いましょうね、我が愛し子』

「! ……はい!」

 愛し子。優しく音に乗せられたその言葉にぶわりと胸が熱くなる。こくこくと頷くアイラを満足そうに眺めると、ナイラは来た時と同じように何もない空に消えていった。

 足音が近づいてくる。ジェナの笑顔を思い浮かべ、アイラは微笑むとゆっくり踵を返した。

 ふわりと揺れた髪を、誰かの手がそっと掬い上げた。

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