第6話 オルフェ


 しばらく歩くと、いつの間にか周囲は高木に囲まれた森になっていた。川の水は透明感を増し、勢いよく滑るように流れている。ひんやりと湿った空気にアイラとジェナの足音だけが溶けていく。やがて視界が開け、トロンが念送してきた通りの静謐な湖が姿を現した。

「うわぁ……!」

 水面が青空を映し、雲の縁を陽光が彩ってきらきらと輝く。鮮やかなその風景に、ジェナが歓声をあげて足を止めた。けれど、景色を楽しむのもつかの間、ジェナはすぐさま辺りを見回すとアイラを見上げて無邪気にねだる。

「ねぇ、ミョーはまだ遠いんでしょ?この森探検したい!」

「えぇっと……」

 思いがけない要求に、アイラは言葉に詰まってザイロに視線を投げた。どのみちオルフェと接触する時はジェナを遠ざけることになるが、一人にするのは心配でもあった。アイラの心情を正確に汲み取って、ザイロは尻尾を一振りするとジェナの肩に飛び乗る。

『ボクも行く!いいでしょ?』

 ザイロの突撃にジェナは驚いたように目をみはり、すぐに状況を飲み込むと期待に満ちた目で再びアイラを見上げてきた。今度はそこにザイロの眼差しが加わり、アイラは思わずくすりと笑いをこぼして頷く。

「うん、行ってらっしゃい。無いとは思うけど危なくなったらすぐに帰ってくるんだよ?」

『はーい』

 アイラの注意にザイロが真っ先に良い子の返事を返し、すぐジェナがそれに続く。二人が連れ立って森の奥に消えていくと、アイラは無意識にぎゅっとクリスタルを握りしめた。トロンがアイラを見上げ、こくんと頷く。ポケットから出したクリスタルはもらった時と変わらず柔らかい光を放っている。

「……オルフェ様、」

 小さく呟くとアイラはクリスタルにゆっくりと魔力をこめた。注がれる代行者の魔力に反応してクリスタルは輝きを増していく。やがてぶわりと緑の風が吹くと、トロンはアイラを誘うように湖へと入っていった。両手の間にクリスタルを浮かべ、アイラも静かに水辺へと踏み出す。爪先が水面に触れた瞬間、湖は扉を押し広げるようにぐわりと口を開けてアイラを迎え入れた。

「……!」

 水が意思を持つ生き物のように動く。予想を超えた光景にアイラは息を飲み、思わず足をひっこめた。

「代行者って、みんなこうなの……?」

 呟くも答えは返らない。

 通常、光神は自分の直系の中から一人の代行者を選び出し、力の結晶たるクリスタルを預ける。代行者は自身の魔力をクリスタルの力と呼応させ、その莫大なエネルギーを部族と主神のために使う。けれど、ヴァイの主神であるマナは代行者を持たなかった。クリスタルは神殿に置かれ、大巫女と呼ばれる数人の女性が共同で力を使うのだ。有事にはマナはその神殿に現れ、普段の居場所を明かすこともない。代行者は神のもとに赴くことができるというのもヴィヨンにはほとんど知られていないこと。オルフェに招かれる前はアイラにとっても神とは決して面会できない存在だった。

「……他の光神の代行者は、主神によく会ってるのかな」

 ふと思い浮かんだ可能性に、胸が小さく痛んだ。頭を振ってそれを追い払うと、アイラは今度こそ湖の底へと進んでいく。

 青黒くひんやりとした夜の世界がアイラを優しく迎え入れる。先導するトロンの体がきらきらと金色に輝いている。星屑のようなその輝きを追ううちに、ふと気がつくとアイラは水底の神殿に立っていた。神殿と言ってもそれは神を祀るために建てられたものではなく、神自身が住居として配下に作らせたものだ。オルフェの神殿はゆるやかで繊細な曲線に彩られ、どこからともなくかすかな笛の音が響いている。クリスタルから放たれた光が柱を撫で、様々な模様を浮かび上がらせる。

「ここ、か」

 呟くアイラにトロンがこくりと頷いた。促され、アイラは踏みしめるように一歩ずつ神殿の中に入っていく。薄暗い神殿を緑の光が眩いほど照らし出す。壁に刻まれた線と埋め込まれた石が複雑な陰影を描く。やがて、アイラが座にたどり着くとオルフェの両脇に控えた配下たちが一斉に笛を構えた。

「!」

 溢れ出す音の奔流。細く太く、低く高く、笛の音は絡み合いうねりながら流れていく。時に威風堂々と、時に囁くように耳をくすぐる響きは壁に反響して時折閃くように姿を変える。踊るように、駆けるように、戦くように。調べに揺られてアイラの意識はふわりと浮遊し始めた。

(なんだろう……空?飛んでる……落ちてる……?)

 背筋を走る危機感と、それをしのぐ快感。次第に床の感覚が消え、周囲の様子も見えなくなってくる。夢うつつで漂うアイラの前にゆらりと闇が現れた。

『アイラ』

 深く響く声が優しく名前を呼ぶ。アイラはゆるゆると虚空を泳ぐように声の主に近づいた。

「こんにちは、オルフェ様」

 挨拶の声は流れに浮かべた葉のようにすっと通り、瞬く間に消えていく。常とは違うその響きに戸惑っていると、オルフェはふっと笑みをこぼして言った。

『珍しいか?ここは私の根源に依って成る死と音の場だ』

「死と、音……」

 アイラがそれを口にした瞬間、クリスタルから吹く風が勢いを増した。オルフェは目を細め、あやすように告げる。

『そう緊張するな。お前を害するものではない』

 それを聞くとクリスタルからの風は徐々におさまり、やがて元のほのかに光る状態にまで戻った。アイラはおとなしくなったクリスタルを抱いてほっと息を吐き、改めてオルフェを見上げる。美しい夜色の体には所々痛々しい傷が残っており、思わず泣きそうになっていると不意にオルフェの翼がそっと頭を撫でた。伝わってくる確かな愛に胸の奥がじわじわ熱くなっていく。ぽろりとこぼれた涙をぬぐうと、アイラはオルフェの翼にぴたりと額を押し当てた。


 しばらくして、少し落ち着くとアイラはゆっくり顔を上げた。オルフェは変わらず優しい瞳でアイラを見ている。その目を見るとどうしても離れがたいけれど、アイラには森に残してきた人がいる。用件を言おうと口を開く寸前、オルフェは何かを察したようにそっとアイラの体を放した。アイラはきちんとオルフェに向き合い、ジェナと出会った経緯を説明する。

 川辺に倒れていたこと、右手を見られるのを嫌うこと、見えない友達がいること。すべてを順序だてて話すと、アイラは最後に大きく息を吸って尋ねた。

「私、ジェナを独りにしたくないです。一緒にいてもいいですか?」

 沈黙。静まり返った空間で心臓の音がやけにうるさく聞こえる。

(……もし、駄目って言われたら)

 その時はきっと、納得がいくまで抗おう。

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