(三)ひとつひとつ②
年が明けてしばらく経過しても、王太子の婚約者の件については全く音沙汰は無かった。
王太子との面談がある訳でも無く、身の回りで何かがある訳でもない。水面下で何かが動いているのかさえも疑いたくなる程だった。
「はぁ……」
今後の事を含め、憂鬱な事柄が蓄積してきたのが嫌で、ラーソルバールは机に向かったまま大きくため息をついた。
「……ため息をついたところで、状況は何も変わらんぞ」
例の如く、ラーソルバールの部屋で本を片手に香草茶を飲んでいたエラゼルが、視線も動かさずに皮肉を言う。
「私の部屋で当たり前のようにお茶を飲んでいる人は、悩み事は無いの?」
「ふむ、いっぱいあるぞ。修学院の事や、王太子殿下の件とルベーゼ姉上の件、それと明日の菓子は何が良いかとかな……」
「……最後のはどうでもいいよね?」
ラーソルバールに突っ込まれて、エラゼルは手を止めた。
「……む、そういえば、今日は菓子がないな?」
「もう……、公爵令嬢が男爵家の娘に貢物の要求ですか?」
「客観的にはそういう事になるのか?」
否定もせずに、悪戯っぽく笑うエラゼルを見て、ラーソルバールも思わず笑い出してしまった。
「棚の二段目に小さい袋が有るから、それ食べていいよ」
「ふむ」
エラゼルは立ち上がると、言われた通りに小さな袋を取り出し、嬉しそうに紐を解いて中を覗き込む。
「それで、領地は決めたのか?」
「あー、うん、イスマイア東部にして欲しいって、回答しておいた」
「王都から近いしな、私も遊びに行きやすい」
そう言いつつ、袋の中から小さな焼き菓子を取り出して口に放り込むと、エラゼルは満足そうな表情を浮かべた。
「もう遊びに来る算段してるの?」
「何か問題でもあるのか?」
二個目を頬張りながら、エラゼルは首を傾げた。
「いや、貴女はしばらく学生でしょ?」
そう指摘されても、エラゼルは特に気にすることも無いというように、ラーソルバールの顔を見る。そのまま焼き菓子を口の中でこりこりと音を立てて噛み砕くと、香草茶を一口飲んで口を開く。
「それはそうだが、休暇期間にだって行けるぞ」
休暇期間に帝国に行ってきた身としては、何も言い返せない。問答が無意味だと悟ると、話題を逸らそうと考えた。
「そう、その修学院に行く事、ファルデリアナ様には伝えた?」
「いや?」
微妙な反応に、疑問が沸く。
「二人は旧知の仲だし、少しは関係改善したんじゃないの?」
「と言っても、同じクラスになると決まった訳でも無いのだし……」
「途中入学する形になるんだから、少しは環境に気を使いなさい。私達も居ないし、前みたいな面倒事は嫌でしょ? 今ならあの方も力になってくれるかもしれないよ」
心配されているという事が分かったのだろう、エラゼルは僅かな沈黙の後に微笑を浮かべると「分かった」とだけ答えた。
ラーソルバールは書類を書き上げると机を離れ、エラゼルと同じテーブルにつく。
何も言わずにエラゼルの前に有ったティーポットを手に取ると、勝手に茶をカップに注ぎ、すぐに口をつけた。
「ああ、そうだ。公爵様に御紹介頂いた方、二人とも良い方だったので働いてもらう事になったの。公爵様宛に礼状も出したんだけど、私がお礼を言っていたってお伝えしてもらってもいい?」
「別に構わんが、父上はラーソルバールが顔を出した方が喜ぶと思うぞ」
「ん?」
そこまで好かれているという自覚は無かったので、ラーソルバールとしては意外な言葉だった。
驚いた様子のラーソルバールを見ながら、エラゼルは手にした焼き菓子を指で弄ぶ。
「いや、冗談で言っているのではない。ラーソルバールが男だったら、迷わず私を嫁に差し出すのに、と言い放ったくらいだからな」
「あはは……何だかなあ……。機会が有ったらお邪魔することにするわ」
自分が男だったら、エラゼルとはこんなに良好な関係で居られただろうか、と考える。いや、男だったなら、エラゼルがあそこまで敵愾心を抱くことも無かっただろう。それはそれで、また違った出会いだったかもしれない。
今のこの出会いが、後にどう繋がっていくのか、今はまだ予想できない。けれど、エラゼルだけでなく、この学校生活で多くの友人を得たことは無駄にならないはずだ。
焼き菓子のほろ苦さが、感傷的になる心に少しだけ染みた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます