祖父の免許証

すごろく

祖父の免許証

 今朝も我が家の駐車場は騒がしかった。

「あのね、お義父さん、だからもう運転はやめてって言ってるでしょ!」

 母の怒声が壁を突き抜け、目覚まし時計のアラーム代わりに僕の鼓膜に突き刺さる。

 僕は寝惚け眼を擦りながら、玄関へと向かい、ドアを少し開けて駐車場の様子を確認する。

 玄関には僕しか来ていないことから察するに、父と妹はどうやら狸寝入りを決め込んでいるようだった。

 駐車場を覗いてみれば、案の定運転席のドアが半開きになった自動車の前で、祖父と母が弱々しい取っ組み合いをしている。

「もう何歳だと思ってるんですか!」

 母はまた怒鳴る。

「うるさい! 何歳になろうが車の運転くらい誰でもできるだろうが!」

 祖父も母に負けじと怒鳴り返す。しかし、その声はしわがれていて今一つ迫力がない。

「最近はね、高齢者の事故とかよくテレビのニュースで取り上げているんですよ!」

「それくらい知ってる! でも俺をあんな連中と同じにするな!」

「何を言ってるんですか! だいたい、こんな朝早くにどこへ行こうっていうんですか!」

「婆さんの墓参りだよ!」

「こんな朝に行かなくてもいいでしょ! それに車でなくとも行ける距離でしょ!」

「ああ、わかった! わかったよ! 今日はやめとくよ!」

 いつものように祖父が折れた。祖父は落ち武者みたいに恨めしそうな表情を浮かべながら、自動車から離れ、玄関へと歩いていった。

「今日だけじゃなくて、ずっとダメなんですよ!」

 母はそう祖父の背中に投げつけながら、自動車のドアを苛立たしげに勢いよく閉めた。

 祖父がドアを大きく開けると、玄関の隅に立ってこそこそと駐車場の様子を観察していた僕と目が合った。祖父は何も言わず、落ち武者顔のまま僕の横を素通りした。

 そのままサンダルを脱いで廊下を進み、自室にばたんと引きこもった。

 母も玄関に上がってきて、僕と目が合う。

「あんた、もしかしてずっと見てたの?」

「いや、えっと、途中から、たぶん」

「悪趣味ね。見てるだけじゃなくてちょっとは止めるの手伝ってよ」

「あ、ああ、うん、ごめん」

「あー、もうまったく、あんたもお義父さんも心配ばっかりよ」

 母はぐちぐちと言いながら、祖父と同じように僕の横を通り過ぎていった。

 母が台所で朝食や弁当を作り始めても、僕は所在なげに廊下をただうろうろした。二度寝をする気も起きなかったし、かといってやるべきこともなかった。

 そのうち父や妹が起き出してきて、部屋からいそいそと這い出してくる。廊下をうろうろする僕と目が合ったけれど、二人とも無視して食卓へと向かっていった。

「ヘイスケ、いつまでうろうろしてんの。早くこっち来て朝食食べなさい」

 苛立ちを引き摺った母の声に呼ばれて、ようやく僕も食卓に足を運んだ。

 祖父は部屋から出てこなかった。母が祖父用と思われる朝食を乗せた皿を、上にラップをかけて冷蔵庫に入れていた。

 ほどなくして、父は仕事に出かけた。またしばらくして、妹は高校に登校した。もうしばらくして、僕も大学に行かなければならない時間になった。母は仏頂面で掃除機を回していた。玄関から外へ出る際、祖父の部屋のドアを見遣ったが、それは溶接された鉄板ようにぴったりと閉ざされているように思えた。


 祖母が死んでから一年くらいが経つ。祖母が死んでから、祖父のボケと頑固さは加速しているようだった。元々祖母が死ぬ前からずいぶんと面倒な人だったけれど、祖母が死んでからは歯止めが効かなくなっている感じがする。

 祖母は端的に言えば、穏やかな人で、どこか抜けている人でもあった。物心がついた頃から怒ったところは見たことがなくて、たまに素なのかとぼけているのかわからない頓狂な発言をした。そんな人だったから、祖父と夫婦なんてやれていたのではないかと思う。「あんな人と結婚するとか、近所のホームレスと結婚した方がマシだわ」というのは母の言だった。ちなみに父については、「悪くもないけど良くもない」とのことだ。

 祖母が死んだのは突然のことで、死因は心不全だった。ようはよくわからないけど心臓が止まったということである。台所で急に倒れ、病院に運ばれて、そのまま逝ってしまった。

 祖父は祖母の死が知らされたとき、特に表情を変えなかった。ただいつものように苦虫を噛み潰したようなしかめっ面をしているだけだった。葬式のときも同様だった。父も妹も、父方の家族に冷たい母でさえ泣いていたけれど、最も祖母に寄り添っていたはずの祖父は泣きもせず、かといって笑いもせず、やはり何かを睨むような顔をしているだけだった。

 それから祖父は我が家で同居しているのだけれど、気難しい性格と進行した脳の衰退のため、家族仲は良くなく、特に手を焼かされている状態の母は、毎日のように不機嫌だった。実の息子である父は仕事を理由に、母に祖父の面倒を押し付けて知らんふりをしているし、妹は祖父どころか父や僕までシカトしている有様だった。たぶん妹とはもう数か月は口を利いていないと思う。

 それでも人は死ぬまで生きる。生活をする。家族は仲が悪くても家族だ。だけれども、死んだら――人生が終わってしまったら、そこで終わりだ。生活も家族も何もない。

 だから僕は祖父を見ると否が応でも考えてしまう。黙って険しい皺を眉間に浮かべている顔を見たとき、母と口喧嘩をしたり取っ組み合いをしたりしている様子を見たとき、閉ざされた祖父の部屋のドアを見たとき――この人が死んだら、誰が泣くのだろう、と。祖母は好かれていたから大勢の人が泣いたけれど、嫌われ者の祖父の死には誰が泣くのだろう、と。

 そんな益体もないことを考えるたび、祖母の葬式のとき、自分も祖父と同様に涙の一滴も流していなかったということを思い出すのだ。


「お義父さん、免許証を返納するべきよ」

 夕飯のコロッケを箸で突きながら、母は唐突に言った。

「何だよ、急に」

 父がうんざりしたように言う。

 妹は特に何も反応せず、黙々と夕飯を口に運んでいく。僕も黙り込んで、身を潜めるように静かに味噌汁をすすった。

「あなた、ニュース観てないの? 最近高齢者の自動車事故が多発してるのよ。この間なんて八十代の元官僚の人が親子を轢き殺したのよ。小さな女の子よ。もう他人事のようにも思えなくて気が気じゃなくて。やめてって言っても、お義父さんは無理やりにでも車に乗りたがるし。このままだと、いつあの人も同じような事故を起こすか――」

「無理やり乗りたがるって言ってもお前が止めてるんだから、大丈夫だろ」

「何よ、あなたの親じゃない。すべて私に押し付けようっていうの」

「いや、別にそういうわけじゃないが――」

「とにかくね、私はあの人の世話なんて本当はもう嫌で嫌で堪らないのよ。少しでも心労を減らしたいって思うことぐらい普通じゃない」

 母は苛立たしげにコロッケに齧りつく。

「うーん、でも返納ってなあ――」

「何を躊躇うことがあるのよ。最近は高齢の有名人の人とかも何人も返納してるのよ。今はそういう時代なの。お義父さんは一人暮らしとかでもないし、運転できなくてもいいじゃないの。絶対に返納するべきよ、免許証は」

 母は箸を持つ手を振り回し、口から唾を飛ばす。父はますます眉をひそめる。

「でも返納ってさあ、本人じゃないとできないんじゃないのか?」

「だから、あなたがお義父さんを説得して――」

「ええ、親父を説得って無理無理」

 父は食い気味に首を横に振る。

「何でよ、自分の父親でしょ」

「親父は俺の言うことなんか聞かないよ。親父が誰かの言うことを素直に聞いたことなんて、見たことがない。母は親父のイエスマンだったしな。昔から自分が思っていること、考えていることが一番正しいって感じの人だったし」

 父は気弱そうに首を竦めた。

「それでも説得くらいしてちょうだいよ。私はいつまであの人に手を煩わせられなけりゃならないのよ」

「どうせ先は長くないんだしさあ、あとちょっとの辛抱だよ。我慢してくれよ」

 父は露骨に面倒臭そうな調子で、だらしなくコップを傾けて水を飲む。もちろん母がそれで納得するわけがない。

「あなたね! もっと真剣に考えてよ! お義父さんが何かやらかしたら、あなたの仕事にも響くし、ミカやヘイスケの将来にも傷がつく可能性があるのよ! あなたね、それでも社会人なの? 父親なの? 色々と怠慢なんじゃないの?」

 母はついに箸を茶碗の上に置き、怒涛のごとくまくし立て始めた。こうなってくると長いのだ。

「あのな、俺だってお前らのために必死に仕事してんだよ。何でそんなこと言われなけりゃならないんだよ。俺は至って真面目だよ」

 父もやめておけばいいのに、言い返す。ここまでくるといよいよヒートアップする一方だ。

「あなたが仕事してようが何だろうが関係ないわよ。私だって家事っていうれっきとした仕事をしてるのよ。それに他の家のこと、ミカやヘイスケのこと。何よりもお義父さんのこと。私の方がよっぽど苦労してるわよ。その苦労をちょっとでも減らしてって言ってるの!」

「仕事してようが関係ないってそりゃ酷いだろ。俺が仕事しているから、この飯だって食えてるわけだしさあ。ミカやヘイスケの学費も俺が出してるし、お前の無駄としか思えない化粧品や服だって俺の給料で買ったものだろうが」

「無駄としか思えないって何よ。それはあなたの主観でしょ。私だってご近所付き合いや親戚付き合いのためにそういうの買ってるっていうのに――」

「付き合いにそんなもんいらないだろ。無駄って言って何が悪い」

「あなたはね、付き合いそのものを私に押し付けて逃げてきたからそんなこと――」

 もう完全に論点は祖父の免許書のことからズレているのに、二人は祖父の存在自体を忘れてしまったように夢中で不毛な言い争いをしている。それで結局、祖父のことはまた後日と有耶無耶になるのだ。こんな光景は、もう何百回と見たような気がする。

 夕飯を食べ終わった妹は、乱暴に食器を重ねて台所の流し台に置くと、わざと足音を立てながら、しかし口は不機嫌そうに真一文字に結んで食卓を出ていった。妹のこの態度はいつものことなので、母も父も気にせずにどうでもいい言葉の投げ合いに興じていた。

 僕の皿の上にはまだ夕飯が四分の一ほど残っていたけれど、食欲が湧かなかったし、何よりも居心地が悪くて堪らないので、妹と同じように食器を重ねて流し台に置き、そそくさと食卓を出た。

 自室へと向かう途中、ドアの前に母が置いたラップをかけた夕飯を、室内に引きずり込んでいる最中の祖父と目が合った。祖父は僕のことを一瞥したが、やはり特に何も反応することはなく、夕飯を完全に引きずり込むと、すぐさまばたんとドアを閉じた。

 僕もそのまま普通に自室に戻った。丸まった紙屑が溢れ返ったゴミ箱と、そこら中に散乱した空のペットボトルが殺風景な部屋の景観を乱していたけれど、片付ける気には到底なれなかった。

 ベッドに寝転がり、大の字に手足を広げる。天井に少し大きめの羽虫が貼りついている。

 今頃祖父は夕飯を食べていて、妹は友達とラインでもやっていて、母と父は未だに果てのない口論を続けているだろう。目を瞑ってそれらの痕跡を聞き取ってみようとするのだけれど、空気中に舞う埃が擦れるような耳鳴りばかりが聞こえるだけだった。


「そういやさ、お前に俺の婆ちゃんが死んだときの話ってしたっけ?」

 大学の昼休み、学生ががやがやとやかましい食堂。僕の目の前に置かれているのはうどん。ネギ以外に特に何のトッピングもない普通の素うどん。もう十日連続、昼飯にはこれを食べている。好きというわけでもない。単純に食道の中で一番安いメニューだから、出費を浮かせるために惰性で注文し続けているだけだ。

 そして僕の向かいの席に座っている男は、石村という。同じ学部の学生だ。顔を合わせたらたまに世間話程度の話をする。それ以下の関係でもそれ以上の関係でもなかった。

「いや、聞いたことないけど」

 僕はうどんをすすりながら答える。先ほど祖父とそれにまつわることを愚痴のように話したところ、石村はつまらなさそうな顔で急に自分の祖母ことを口にし始めた。

「俺の婆ちゃん、明るい人でな。どんなに暗い話題をしているときも、婆ちゃんがいるとなんだか雰囲気が和らいだような感じになった。孫の俺のことすごく可愛がってくれたなあ」

 石村はパックの野菜ジュースをストローですすりながら、懐かしむように目を細めた。

「婆ちゃんの死因はさ、癌だったんだよ。最初は乳癌。一応乳房は一回切除してな、一時期は事無きを得たんだけどな。後から検査したら全身に転移してて。まあ助からんかった」

「――えーっと、それと僕の祖父ちゃんの話はどう関係して――」

「まあまあ、ゆっくり聞けよ。もう助かんねえって医者から診断された婆ちゃんは、終末病棟に入れられちまったんだよ。終末病棟はわかるか? 文字通り、もうすぐ死ぬ人が死ぬまで入院してるところな。終末病棟に入られた後も、婆ちゃんは明るかった。俺が見舞いにくるたびに、いつもにこにこと笑ってな。痛くねえのかって訊くと、そりゃ痛いって言いながら普通に笑うんだよな。だから痛いんだろうとはわかるんだけど、痛々しくはなくてさ。なんというか、見舞いに行く方も楽だった。死ぬのはわかってたけどな」

 相変わらず石村が何を言いたいのか見えてこなかったけれど、僕は黙って聞いていた。自然と箸を操る手が止まっていて、うどんの麺はスープを吸い上げて膨張し始めていた。

「そんでいよいよ婆ちゃんが死ぬってときによ、もちろん看取りに行ったんだけどな。俺が来たとき、まだ婆ちゃんは意識があってな、看護師やら医者やらが慌ただしく走り回っている間で、喚いてたんだよ。痛い苦しいってさ。顔面ぐにゃっと歪ませて、地獄から聞こえてくるような呻き声を上げてさ。そこに婆ちゃん元来の明るさなんてこれっぽっちもなかったよ。そこにあったのは死の苦痛だけだった。で、婆ちゃんはそのまま意識不明になって、しばらくして逝っちまったんだけど、俺、思っちゃったんだよな。思っちゃった。婆ちゃんの死に様を見てさ、ちょっとよくわかんなくなっちまった」

「――何が?」

「――何で長生きすんのかなってさ」

「え?」

「婆ちゃん、あれでも長生きだったんだよ。平均寿命は過ぎてたんだ。なのに、なのにさ、最後はあんなんなんだよ。どれだけ明るく生きて、幸せな思い出をたくさん作ってもさ、死ぬ前はあんなにもがくほど苦しむんだよな。それ考えちゃうとさ、人間って何で生きんのかなって。心不全とか脳梗塞とかああいうのでぽっくり逝けたらそれが一番だけど、そんなの自分にも誰にもわかんないしな。俺も、歳を取ったらあんな風に苦しんで死んでくんかなあ」

 石村は遠い目をしたまま、そこで口を止めた。野菜ジュースのパックは指の跡が見えるほどぎゅっと握り潰されていた。

「――それで?」

「それでって?」

「それが僕の祖父ちゃんのことと何か関係あるの?」

「ないよ」

「は?」

「お前の話を聞いてたら思い出しただけだよ」

 石村は悪びれる様子もなく、そう言って笑った。

「俺、この次に講義入ってるから」

 石村は席から立ち上がると、中身が空になった野菜ジュースのパックをストローごと燃えるゴミのゴミ箱に投げ捨て、言い返しもせずにぼけっとしている僕を置いてさっさと食道を出ていった。一人になると、騒がしさがよりいっそ激しくなったように思えた。


 祖父が骨折した、という連絡が最初に来たのは、講義中のことだった。

 僕は大学では一応真面目な学生で通っているので、スマホはマナーモードにしているし、もちろん講義中に覗くようなこともしなかった。また、講義中でなくともあまりスマホを見る習慣はなかった。そのせいで、祖父の骨折のことを知るのが遅れた。

「すぐに出なさいよ!」と電話に出るなり、母に怒鳴られた。

 祖父が運ばれたという病院を聞き、そこに向かった。病院の受付では、母がまだ立腹の様子で待っており、僕を見つけるなり駆け寄ってきて、電話越しでも散々言った小言をさらに重ねてきた。僕は適当に相槌を打って軽い謝罪を続けることしかできなかった。

 小一時間ほど母から謂れのない説教を受けた後、祖父の病室に連れていかれた。

 病室のベッドの上に横たわる祖父は、片足を包帯でぐるぐるに巻かれて、相変わらず不機嫌そうな顔で天井を睨んでいた。僕や母が病室に入ってきても、特に何も反応しない。

「お義父さん、ヘイスケが来ましたよ」

 母のその呼びかけで、祖父はようやく僕の方を見た。が、祖父はすぐにまた視線を天井へと戻した。

「――そういえば、何で祖父ちゃん、足の骨折ったの?」

 間が持たないので、僕は思い出したように母に訊ねた。

「そうよ! 聞いてよ! お義父さんね――」

 母は急に興奮した面持ちで語り始めた。私の苦労を聞いてよと言わんばかりに。

 母の話を要約するとこうだ。祖父はまた母の目を盗んで車に乗り込もうとした。だから母が止めに入ろうとしたのだが、慌てた祖父は転倒し、片足の膝のあたりを強打したらしい。それで祖父があまりにも尋常ではない痛がり方をするので、母は救急車を呼び、そして搬送され、骨折との診断が下ったという。

「まったく、私の忠告通りにもうやめておけば、こんなことにならなかったのに」

 母はため息をつきつつ、じろっと祖父を横目で見る。

 いつもの祖父だと「お前が止めなければこんなことにはならなかった」くらい言い返しそうだったが、さすがに足の骨を折ったことが心にも来ているのか、口を閉ざし、むしろ母から視線を逸らすように首を曲げた。

「上原さん、セイゾウさんの今後のことで先生からお話があります」

 病室に看護師の人が入ってきて、母に言う。

「はい、わかりました。すぐに向かいます」

 途端に母は外行の余所余所しい声を出して、看護師の人が去るとまた元に戻った。

「ヘイスケ、ここで待っててよ。あーあ、お義父さん、面倒ごと増やしてくれちゃって」

 母は恨み言を残し、医者の話を聞きに病室を出ていった。病室には、僕と祖父が残された。病室は六人部屋で、他にも三人ほど患者がいたけれど、皆祖父と同い年くらいの老人で、一もうすでに死んでいるかのように眠っていた。

 僕はそのまま突っ立っていても居心地が悪いので、祖父のベッドの横に置かれているパイプ椅子に腰かけた。祖父は僕とも目を合わせようとせず、再び視線を天井へ向けている。

 僕はそんな祖父の横顔を、遠慮がちに眺める。皺の深い、浮世絵に書かれた妖怪のように険しい形相のその顔を。

「――人の顔をなにじろじろ見てる?」

 祖父が言った、と気づくのに数秒ほどかかった。

「俺の顔が何か変なのか?」

 祖父はもう一度言った。祖父が僕に対して口を開いたのは、えらく久しぶりのように思えた。妹ほどではないが、祖父とも最近まともに話していなかったことを今更思い出す。

「別に変ではないけど」

「じゃあ何でそんなに俺の顔を見るんだ?」

「それは――」

 そのとき、大学の食堂で石村が言っていた、ある老婆の最期の瞬間の話が脳裏を横切った。痛い苦しいともがきながら死んでいった人、それまでは明るくて幸せだったはずの人――。長生きは何のためにするのか――石村の言葉。

「――祖父ちゃんはさ、今まで幸せだった?」

 気づけば、そんなことを訊いていた。訊くつもりはなかった。訊きたいとも思わなかった。しかし、僕の口は、そんな僕の意志に反して、確かにそう訊いていた。

 祖父は僕のその不毛な問いかけに、数秒沈黙したのち、言った。

「――――なわけねえよ」

 あまりにも小声で呟くような声だったので、ちゃんと聞き取れなかった。「もう一度お願い」と頼むと、祖父はまた何やらごにょごにょと呟いたが、やはり上手いように聞き取れない。パイプ椅子から腰を浮かし、祖父の口元に耳を近づける。

 祖父の吐息が、耳たぶに触れる。

「俺は――――」

 そこで病室のドアががらっと開き、母が戻ってきた。祖父は言いかけた言葉を引っ込めるように黙り込み、僕も祖父の口元からさっと耳を離した。

「あーもう、結局入院費が高くついちゃうわよ」

 母はなおも愚痴を言っている。

「お義父さん、これに懲りたら、次に退院したときこそ免許書を返納してくださいね」

 高圧的な態度でそう言う母に、祖父はやはり何も言い返そうとせず、ただ「寝る」と一言だけ言ってそっぽを向き、目を瞑り、鼻水をすするような寝息を立て始めた。

「そうやって逃げりゃいいと思ってるの――まあいいわ、ヘイスケ、一旦帰るわよ」

 母はずっと祖父を恨めしそうに見るのをやめないまま、僕に帰るように促した。

「これからお義父さんの着替えとかも持ってこないと――何で私がこんな目に――あの人にももっとしっかりしてもらわないと――私ばっかり――」

 母は終わりのなさそうな文句を垂れ流しながら、病室を出ていく。僕も慌ててその後を追う。少しパイプ椅子を床に引き摺ってしまう。

 母が病室のドアを閉める瞬間、僕は振り返った。ベッドの上で寝ている祖父が、まるでまな板の上の鯉のように、どうすることもできずにただそこに固定されているかのように見えた。それは酷く痛々しくて、同時にとても小さな姿に思えた。軽い風が吹けば吹き飛ばれてしまいそうなほど、脆く弱い、そんな――。

 ドアがぴしゃんと閉じる。白いプラスチック製の板一枚に隔てられたそれは、押しても引いても叩いても殴っても壊すことのできない、高く頑丈な塀のように思えた。囚人を閉じ込めておく刑務所の塀よりも、もっと強固な――。

 病院内に満ちる薬品の匂いを目いっぱい吸い込みながら、僕はただその病室のドアの向こうにいる祖父の姿を思い描くことしかできなかった。何も思うことも考えることもなく、単にあの皺だらけの不愛想な顔を、思い浮かべるだけだった。

 自動車のクラクション音が、どこか遠くから聞こえた。

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