産霊
それから一年の月日が経った。
「行ってくるよ、ユイ」
「行ってらっしゃい、お兄ちゃん。早く帰ってきてね」
ユイはほんの少し背伸びして、ノアの頬に己の唇で触れる。
二人はほんの少し笑う。ノアは家を出て、いつもどおりバスに乗り込む。
「……これで良かったんだよな」
仕事場に向かうバスに揺られながらノアはぼんやりとそんな事を考える。
夕張の事件の後、二人は恐怖から抱き合って眠った。次の夜も、その次の夜も。
恐怖からか、依存からか、元からなのか、事件によって植え付けられた狂気なのか、ともあれ二人は抱き合うだけで終われなくなった。
――元住んでいた場所には流石に居られないし出てきたけど。
――北海道を出てすぐに仕事も見つかった。空き家を借りることもできた。近所の人は優しい。誰も俺たちが新婚夫婦だと疑わない。
――問題無い。これで、きっと。何もかも。
「おっと、すいません」
「いえいえこちらこそ失礼しました」
電車が揺れて、後ろの乗客とぶつかる。
その声に聞き覚えがあり、ノアは思わず振り返る。
これという特徴の無い顔立ちの中肉中背。パーカーを着た男。
「……香食さんじゃねえか」
「ああ、これはこれは奇遇ですねえ」
電車は揺れる。
ノアと零斗は見つめ合ったまま動かない。
「どうですか、お茶でも」
「今更出てきて何の用だ」
「ええ、一つご報告をしたいと思いまして」
零斗は手に持った小さな鈴を鳴らす。
バスが停留所に着く。他の乗客たちは次々とバスを降りていく。新しい客は居ない。バスは運転手とノアと零斗だけを乗せたまま走り出す。
目の前で繰り広げられる気味の悪い光景に、ノアは凍りつく。
「まあ座って座って」
零斗に促されるままに、ノアはバスの最後部の座席に座る。零斗はノアの隣に座ってからすぐに切り出した。
「除霊が終わりました。今回は長丁場でした」
ノアは首をかしげる。
「……はぁ? 除霊ってなんだよ」
「僕が居なくなって怯えてらっしゃったそうですね。だからってインチキ霊能者に頼っていたと聞いた時はちょっと寂しかったですよ」
「うるせえ。お前らみたいなインチキ野郎とはもう関わるつもりはねえ」
「それは貴方が探した他の霊能者たちみたいに僕を死なせたくないからですか? 好かれてますねえ僕」
ノアは心底嫌そうな顔をする。
「自惚れるな。あれは俺たちの中ではもう終わってる事件なんだ。今更終わりましたなんて言われても……」
「ユイさんがお元気になったのは、引っ越しのお陰ではないでしょう」
ノアは零斗を睨む。その瞳に怯えが滲んでいるのを、零斗は見逃さない。
「ユイさんが持ち直したのは、あなたがユイさんを抱いたからでしょう」
ノアは零斗の胸ぐらを掴む。
しばらくの間、双方に言葉は無い。
――今ここでこいつを殴っても、意味が無い。
「落ち着いていただけたようですね」
零斗は乱れた服を直しながら、安堵のため息をつく。
「何があったのか教えろ。全部それからだ。他の霊能者がみんな死んだのに、なんでお前だけ生きている。お前の言う除霊ってなんだ」
「まず貴方たちは怪異に魅入られた。古くから存在する山の神ですよ。零落した旧い神です。上戸ユイさんは当時処女であり、また優れた霊的素質を持っていたので狙われた。霊能者からするとよくある話です。神といえど、零落した山の神程度、追い払うくらいはできると皆思ったんでしょう」
ノアは眉をひそめる。
「だが、それは間違いだ。そこを間違えてみんな死んでいった」
「は?」
「上戸ユイ、あれですよ。あれが怪異だ」
「香食零斗、あんた何を言ってるんだ? ユイは俺の妹だ。普通の女の子だ」
「貴方からすればそうなのかもしれません。実際、僕もまさかそんな訳が無いとは思いました。ノアさん。あなた、ご両親からご先祖の話を聞いたことは?」
「無いよ。早死にしたんだ」
「では、ご両親が実の兄妹だったことは?」
ノアは口をぽかんと開けたまま、何も言えなくなる。
冷や汗が一筋流れ、手が震え始める。ノアの尋常でない動揺を見て、零斗は畳み掛ける。
「ツテを頼って戸籍を調べました。昨今の不景気だ。役所の人間もお金を握らせたら簡単に見せてくれましたよ。上戸の一族がなんだったのか、それは僕にもあなたにも、はっきりとは分かりません。ただ、推測はできます」
「す、推測?」
「人柱ですよ。炭鉱の運営や山野の開拓に無くてはならない人柱。上戸の一族は代々人柱を出す一族で、その力を高めるために近親交配を繰り返していたのではないでしょうか。貴方自身の仄暗い欲望も、ユイさんのあなたへの依存も、それをより円滑にするためにそういった性質を持つツガイを何度も掛け合わせていた可能性があるかも。ご両親早死をなさったのも、本当に普通の死でしたか? 僕にはどうもそう思えないのですが……」
「そんなバカな。警察でちゃんと調べてもらったって……」
「田舎の警察なんて、地方の有力者ならどうとでもできますよ」
「地方の有力者……」
ノアは黙り込む。
「貴方たちが年に一度は墓参りであそこへ向かうようにしたのは、貴方たちが十分に成熟したらまた人柱にするつもりだったのでは? 誰が墓参りの話をしていましたか? 大方、北海道に縁の深い親戚などでは? 貴方たちが成人するまでの生活費の一切も出してくれたのでは?」
ノアは黙ってうなずく。既に亡くなった大叔父の顔が浮かぶ。和歌山から出てきて炭鉱で一山当てたと豪語する気風の良い老人……だとノアは思っていた。
「和歌山だ。和歌山の大叔父が面倒を見てくれた」
「和歌山……淡島ですか。淡島神といえばヒルコの兄弟。国造りの際に流されたもう一柱の神のなりそこないだ。夕張にも大きな淡島神社があります。貴方たちに毎年夕張を訪れさせて、贄として十分に育ったら自動的に山の神の下に送り込めるようにシステムを構築していたのでしょう。合理的ですね」
「ど、どういうことだ?」
勝手に納得して頷く零斗と困惑するノア。零斗はしたり顔で説明を始める。
「簡単ですよ。貴方たちが人柱として十分に育つと山の神がその存在を嗅ぎつけ目を覚ます。そしてあなたたちを異界に取り込み、夕張の豊穣が保たれる。墓参りは年に一度の検査だったんですよ。しかし貴方たちが子供を生むように仕組んでないところを見ると、何処かで儀式の内容や意味が失われたのかもしれないですね。心当たりは?」
――そういえば大叔父の死により親戚中が揉めていた。
ノアとユイは遠縁だったので巻き込まれなかったが、大変だったと聞かされている。
「心当たりはあるようですね。ならば良い。実に興味深い。山の神にユイさんが狙われたのは偶然ではなかった。あの異常な世界に放り込まれてユイさんが生き残っていたのは偶然ではなかった。無数の人柱たちの呪いを背負ったからこそユイさんは狙われたし、無数の人柱たちの呪いを背負ってたからこそ山霊は引きずり込んだユイさんに手出しができなかった。そして貴方たちは生き残り、ユイさんは人柱として育ちすぎた……」
「おい、まさかまだ何かあるのか?」
零斗はカラカラと笑う。
「だから、もう大丈夫ですよ。ユイさんを狙った山の神は、僕が鎮めてきたんです」
「いや、だけど、その呪いってのは消えてないんだろう? それに育ちすぎってどう考えてもやばいんじゃないのか。そうだ……それになんであんたが無事なんだ。今までユイを見た霊能者の連中はみんな死んでるんだぞ……!?」
「え、良いじゃないですか。呪い」
ノアは己の耳を疑う。
「お前、今」
「そもそも、夕張みたいな人の少ない田舎で積もり積もった呪いが炸裂するなんて、勿体ないと思いませんか? 折角ならこういう人の多いベッドタウンで派手にやっちゃいましょうよ、ねえ?」
「お前、何を」
「占い師としてのアドヴァイスです。他者の為に自己を犠牲にする人柱の呪いが反転する。何百年も重ねられた淡島の血筋が流出してたなんて世の中面白いですよね」
「いや、そうじゃない。そうじゃないだろ。普通、お前みたいな霊能者ってのは、被害を抑える為に……人を助ける為に働いてるもんだろ……!? お前なんなんだ……異常だろ……!」
「あ、ああ……あは、あははは! アッハッハッハッハ! そっか、そうですね! まったくもってその通り。だけどそう言うノアさんはテレビの見すぎです。なんで僕がまだ妹さんに殺されていないと思ってるんですか?」
「おい、待て。ユイが殺したって――」
零斗は涙をこぼすほどに笑って、こぼれた涙を指で拭う。
「実は僕、人間じゃなくて化け物の味方なんですよ」
バスが停留所に停まる。凍りついたノアを置いて、零斗は立ち上がる。
「ユイが化け物って言いたいのか……!?」
「いえ、ユイさんに憑いているものに思う存分活動してほしいだけです。今はまだ近づく霊能者を皆殺しにして、貴方に都合の良い幸運を与えているだけですが、この先もっと面白いことになりますよ」
「最悪だ……」
ノアは目の前の男への嫌悪で表情を歪める。
「最悪? では貴方たちの未来の話でもしますか? 素敵なことが起こりますよ? おめでとうございます」
「そんなの聞きたくもない! お前……何だよ? なんなんだよ!?」
「占い師ですよ」
零斗は茶目っ気たっぷりにウインクしてバスを降りていく。
それと同時にまた乗客たちが何事もなかったかのように乗り込んでくる。今日のバスは随分空いているなあと、トボけたことを言いながら。
「俺が、俺たちが、何をしたっていうんだよ……」
ノアはバスの窓から空を仰ぐ。ノアの頭の中にまで心臓の音が入り込んでくる。そして心臓の律動に紛れるようにして、囁く声。
――ユイを殺して俺も死のう。また何かろくでもないことが起きる。
――あの日、山で見た光の巨人よりもなお悪いものが生まれる。
――何かが始まる前に、終わらせてしまおう。終われ。終わってしまえ。
ノアは頭を左右に振る。
「そうだ。タチの悪い冗談だ。全部、全部冗談だ。何も起きちゃいない。俺たちは運良く仕事を見つけて引っ越して、それで、それで……!」
ノアが自分にそう言い聞かせていると、懐で携帯電話が震えた。
ユイからの着信だった。
――そういえば、朝の弁当が無かったな。ユイの奴、作るの忘れてたもんな。別に気にしなくて良いのに。
そんなとりとめもないことを思い出し、非日常を忘れ、ノアは微笑む。
「ど、どうしたユイ? お弁当は会社まで届けてくれなくても良いぞ?」
「お兄ちゃん、できたの」
「弁当は冷蔵庫にでもしまっておいてくれよ。朝バタバタしてたからな。お前は悪くないって」
「お兄ちゃん、あのね」
一拍、深呼吸。
「赤ちゃん、できたの」
もう、死んでも終わらない。
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