第23話「いばらの冠」

              浅野あさの 啓介けいすけ 二十九歳


 結局、何一つうまくいかなかった。何一つうまくやれなかった。

 何がいけなかったのだろう。

 私はいつだって自分を諦めていた。私は自分が大嫌いだった。

 私はAC、アダルトチルドレンだ。よくアダルトチルドレンを子供のような性格のまま大人になることだと思っている人がいるが、それは間違っている。アダルトチルドレンとは問題のある家庭環境で育ち、その体験が成人してもなおトラウマとして残っている人のことを言う。

 私の家庭環境は外から見れば理想的に見えただろう。亭主関白の父とそれに付き従う母、両親の言うことを素直に聞く長男の私に天真爛漫な妹、何でも器用にこなす優秀な弟の五人家族。

 しかし外から見える姿と実際とでは少し違っていた。

 父は……家庭を支配していた。

 我が家では父の言うことは絶対だった。父の言葉は全て疑うことの出来ない真実であり、正義だった。異論はもちろんのこと、疑うことも、その理由を問うことすら許されはしなかった。

 そんな父はいつも自分の正しさを声高に語っていた。子供の頃から悪を許せなかった。誰かが虐められていれば、例え相手が上級生や複数であっても一人で立ち向かった。会社で会議があれば誰よりも早く出社し、椅子を並べるなど会議の準備を自主的に行った。人が嫌がる仕事は進んで自分が行い、誰かのためになるのなら自らを犠牲にすることはいとわない。父は正しさを語るとき、いつだって自分を例に挙げていた。

 そして誰かを諸手を上げて賞賛することはなく、欠点を見つけてはそこを辛辣に指摘し嘲笑していた。あの政治家は頭が悪い。あの弁護士はテレビで偉そうに語っているが、ただ周りが望んでいそうな言葉を並べているだけだ。あいつはいい会社に勤めてはいるが、金のことばかり考えている恥知らずな人間だ。

 そんな父を見て、幼い私は父が誰よりも正しい人間なのだと心から信じていた。

 そして父は私に言った……

「お前の教育に失敗した。お前は何をやっても駄目だ。いつも楽をすることばかりを考えて、努力することが出来ない。お前は知らないかもしれないが、私を含む皆がお前を嫌っている。皆がお前のいないところで、お前の悪口を言っている」

 父の言葉に偽りはないと、私は信じていた。だから私は自分という存在について、その言葉の通りに理解した。私は失敗作で皆から嫌われる駄目な人間なのだと、そう理解した。

 そして私は誰も信じることが出来なくなった。今まで仲が良いと思っていた友達も、本当は私のことが嫌いなのかもしれない。いつも一緒に遊んでいた親友も、本当は私なんかとは遊びたくないのかもしれない。皆が私に向けてくれていた笑顔も優しさも……全部、全部偽ものの作りもの。そう思ってしまった。

 それが真実かどうかはさして重要ではなかった。私はもう……そう疑わずにはいられなくなってしまったのだ。

 そんな私ではあるが、妹が誕生するまでは充分に愛され幸せに育っていたと思う。しかし妹が生まれたとき、私の境遇は一変した。

 父は妹を溺愛した。私と妹が同じ理由で一緒に怒られることがあった。しかし妹は謝りもせず、ふてくされるだけで簡単に許された。だが私は殴られた。泣いて謝っても許されず、私だけに罰が与えられた。私には理由がわからなかった。私のほうが年上だったからなどと何らかの理由はあったのかもしれないが、父からの説明はなかった。

 妹が何かをほしがれば、それは簡単に買い与えられた。しかし私の場合は小遣いをためる必要があった。さらに遠くにしかないおもちゃ屋に連れて行ってもらうには、父に車代として対価を支払う必要すらあった。

 私はよく理由も理解出来ないままに叱責を受けた。今でもよく覚えているのが、弟と一緒にお風呂の入っていたときのことだった。私は弟に垢すりがうまく泡立つコツを教えた。初めから垢すりに石鹸をこすりつけるのではなく、一度洗面器にほんの少しお湯を入れて、軽く石鹸をお湯に溶かす。そこに垢すりを入れ、そのお湯を含ませてから優しく揉むようにして洗面器の上でしぼる。そしてまたお湯に垢すりをつけてしぼる。それを何度かくりかえしてから、垢すりに石鹸をつけるのだ。そうするとすごく泡立つ。それを教えると弟は大変喜んでくれた。そして次の日、弟はそれを父に教えたのだ。

 私は殴られた。父は石鹸がもったいないと言って、私を殴った。私は必死で説明した。テレビで紹介していた方法で、このほうが簡単に泡立つため、石鹸も少量で済むと。私はまた殴られた。言い訳をするなと殴られた。

 その言葉は父の常套句だった。私はいつも殴られながら、父に問われた。

「なぜそんなことをした」

 私がそれを説明すると、父は言うのだ。

「言い訳をするな」

 そしてそれを何度も繰り返す。私はいつからか殴られるときは「ごめんなさい」としか口にしなくなっていた。

 私はそんなふうによく殴られた。兄弟で私だけが殴られた。自分でも何が悪かったのか、何が間違っていたのかもわからないままに殴られ「ごめんなさい」と謝った。私は自らの愚かさを嘆いた。完璧で正しい父が怒る理由すらも理解出来ない自分は、本当に出来損ないなのだと痛感した。そんな私でも唯一理解出来たことは、兄弟で私一人だけ殴られるのは私が特別に駄目な子だからだということだけだった。

 そんな日々を過ごすうちに、いつの頃からか私は家にいるとき、父の機嫌をうかがうようになっていた。そして中学生になると、私は柔道部に入った。本当は絵を描くことが好きで美術部に入りたかった。それでも柔道部にした理由は、父がそれを喜んでくれるからだ。父は学生の頃柔道をやっていて、私にもそれを勧めたので私は柔道部に入った。

 柔道部に入ると父が喜んでくれたので私もうれしかった。しかし私にとても懐いていた弟が、私を真似て柔道を始めると状況は変わってしまった。弟のほうが私よりずっと才能があった。弟は大会で優勝するなどと輝かしい結果を残していたが、私はそうはいかなかった。中学生になって柔道を始めた私は、どれだけ努力しても幼い頃から道場に通っていたような相手には勝てなかった。結局父を喜ばせるのは弟で、私は怒られてばかりだった。

 そんな子供頃の体験が心を縛り、私は今、アダルトチルドレンに苦しんでいた。

 私は理由もわからず怒られてきた。だから自分を信じられない。

 私の努力は何一つ報われなかった。だから自分が成功する未来を想像することが出来ない。

 私はずっと人の機嫌をうかがっていた。だから人に異を唱えることも、自分の意思を貫くことも出来ない。

 私が愛されるには対価が伴った。だから何かを与えなければ、何か役に立たねば仲良くしてもらえないと思ってしまう。

 私は誰からも嫌われていると思っていた。だから他者からの好意を信じることが出来ない。

 今の私には過去、父が言った言葉が全て正しかったわけではなかったことはわかっている。

 しかし結局、私は父が言った通りの人間になってしまった。私は出来損ないの不良品だ。私はそんな自分が本当に大嫌いだった。私はこの世界が大嫌いだった。

 だから願った。

 朝目覚めると、まずそう願った。朝だけじゃない。時間の隙間に何度となく、何度となく私は願った。

 消えて無くなってしまいたい。死んでしまいたい。こんな世界消えてなくなってしまえばいい……

 そして今日、願いは叶った。初めて望んだ未来に手が届いた。

 世界は今日、終りを迎える。私もまた終わることが出来る。もう苦しまなくていい。もう何かに耐える必要はない。

 私はゆっくりと目を閉じた。そして目蓋の奥、暗い闇の中で目を凝らす。

 苦痛ばかりのつまらない人生だった。良いことなんて何もなかった。私は望んでこの世界に産声を上げたわけではない。望んで生きてきたわけでもない。

 そして望まれてすらいなかった。

 もう絶望も憤りも、何も感じない。世界が終わると知って、私を覆っていた闇は全て消え去った。

 目を開き、私が今いる自分の部屋の中を見回す。厚く重い遮光カーテンを何年ぶりかに開けて、錆びて硬くなった窓を開く。

 そして空を見上げた。

 美しいと感じた。空を見上げてそんなことを思うのはいつ以来だろう。本当に心の底から美しいと思うことが出来た。辺りを見回してみれば、美しいのは空だけではなかった。まるで世界は輝いているみたいに色鮮やかだった。

 世界は本当に美しく色鮮やかだった。しかしその世界ももうすぐ終わる。なんて晴れやかで、幸せに満ち満ちた気分だろう。

 理解した。私は今日、死ぬのではない。私はやっと心をきつく縛りつけていた、このいばらの蔓から開放される。

 私は今日、自由になるだ。

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