第13話「昨日、夢見た明日」
「ふあぁ~~」
大きなあくびをする。
今日は土曜日で、夫の仕事も子供たちの学校も休み。
昨日は夫が仕事帰りに借りてきたDVDを夜遅くまで、家族四人で見ていた。五本借りてきたのだが、三本も昨日のうちに見てしまった。子供たちが大好きなアニメの映画。レンタルが開始したばかりの超大作アクション映画。そして全米が泣いた感動のSF映画。三本目を見終えたころには深夜二時を回っていた。その後、お風呂やらいろいろあって、最後の私が布団に入ったのは四時過ぎだった。
それでも私は専業主婦。一番に起きてご飯の準備をしなくてはならない。
とは言っても……時計を見ると、もう十一時半。
私はもう一度大きなあくびをして、キッチンの戸棚からビーフシチューのルウを取り出した。我が家では三種類の市販のルウを混ぜて使っている。
料理を始める前に私はリビングに向かう。料理しながらニュース番組の音声だけでも聞こう。そんな何気ない気持ちで、リモコンを手にとってテレビの電源を入れた。昨日最後に見ていたのがDVDだったから、チャンネルが外部入力になっていて画面は真っ黒なまま。私はよく見ているニュース番組のチャンネルをリモコンで押す。
しかし画面に映った番組はいつものものではなかった。総理大臣がとても真剣な表情で何かを語っている。画面の下には「十一時四十八分から全世界に向けて、アメリカ合衆国大統領による重大な緊急発表!」とテロップがある。画面右上に出ている時間は十一時四十四分。後、四分。
いったい何が発表されるのだろう。それはいいことなのだろうか、それとも悪いことなのだろうか。なんだろう……すごく嫌な予感がした。体中でどくどくと強い鼓動を感じて落ち着かない。
湧き上がってくる恐怖心に押し潰されないようにと、無理やり良い発表を想像してみる。そうだ……もしかしたら宇宙人から交信があったのかもしれない。昨日見た映画を思い出してそんなことを考える。
すると画面が切り替わってアメリカ大統領の会見が始まった……
ゴーンと低く大きな音が部屋に響く。
その音にはっとして、私は音の主である時計を見上げた。時計の針はちょうど十二時を指している。テレビで世界の終りの発表を見てから、すでに十二分も経過してしまっていた。残り三時間しかないというのに、その事実に呆然として十二分も無駄にした。
急いで立ち上がる。
しかし何をすればいいのだろう。後三時間……たった三時間で世界は終わってしまう。
目をつむって、深呼吸をする。そして目をつむったまま考える。しかし何を考えればいいのかもわからない。
しばらくそのまま目を閉じていると、目蓋の奥に最愛の夫と二人のかわいい息子たちの姿が自然と浮かび上がってきた。
二つ年下の夫はとても気が弱い。両親が親友同士で近所に住んでいた私と夫は小さな頃からよく一緒に遊んだ。小学生だった頃は、近所のいじめっ子に虐められている夫を守るのが私の日課だった。三十歳を過ぎた今でも夫はゴキブリ一匹に大騒ぎして、新聞紙を丸めてやっつけるのは私の仕事だ。十歳になったばかりの長男も七歳の次男も、夫にそっくりな性格で気が弱い。
だから私は決めた。
まず世界の終りを執拗に告げるテレビを消す。そしてテレビのコンセント、電話線も抜いてしまう。次に携帯電話で両親と義両親に宛てて簡単なメール送信し、電源ボタンを長押して電源を完全に落す。
「よし!」
頬を両手でパシンと叩いて、自分に気合を入れた。
エプロンを着て、長袖を捲くる。
ご飯を作ろう。ご飯が出来上がったらみんなを起こして、いつもと変わらない今日を過ごそう。昨日の夜、望んでいた今日を過ごそう。きっとそれが正解なはずだ。
いつだっただろうか、夫と冗談で、どんなふうに死にたいかを話し合ったことがある。もちろん二人とも苦しんで死ぬのは嫌だった。例えば事故死だったら、大怪我負って苦しんで死ぬよりは即死がいい。病死にしても、長く苦しんで死ぬのは嫌だった。どうせ死んでしまうのなら苦しまずにぽっくり死んでしまいたい。ホラー映画みたいな状況になった場合は二人で真剣に話し合った結果、お化けに呪い殺される前に二人一緒に自殺することに決めた。
そんなふうにほとんど場合、二人の意見は一致していた。しかし唯一、意見が分かれたのが死ぬ少し前に死神が現れて、まぬがれることの出来ない自分の死を教えてくれるのなら知りたいかどうかだった。
私は知りたかった。それがたった数分前でも自分が死ぬとわかっていればいろいろやれることがあると思った。何よりも大切な人たちに別れが告げられる。
しかし夫は知りたくないと言った。夫は知ったところで自分には何も特別なことは出来ないと笑った。死ぬ前に絶対やるべきことがあるのならそれは今すぐにでもやるだろうし、感謝の言葉も愛の言葉も毎日伝えている。喧嘩したままでいることだってない。たいしたことのない理由なら自分が折れるし、謝る。それでも納得出来ないのならそれは喧嘩じゃない。仲違いだ。死ぬ前だからって歩み寄ることは出来ないだろう。
夫はそう言っていた。だからこれでいい。世界が終わることは家族で私だけが知っていれば、それでいい。
早速、私は料理に取り掛かる。
今日のメニューは昨日から決めていた。夫も子供たちも大好きなビーフシチューだ。
まずは戸棚からボールを取り出す。その中に昨日買った牛バラ肉を入れる。賞味期限が今日にまで迫った、三十パーセントオフの商品だ。こんなことならもっと高い高級なのを買っておけばよかった。
そんなことを考えながら、ボールの中にいつも料理用に使っている安物の赤ワインを注ごうとして、思いとどまる。以前、夫の上司に貰った高級ワインの存在を思い出したのだ。やっぱり料理に使うにしても高級ワインのほうがおいしく出来るのだろうか。正直よくわからない。それでももう世界は滅ぶのだ、取っておいてもしかたがないので使ってしまうことにする。
栓を抜いたばかりの高級ワインを肉がしっかりつかるまで注ぐ。そこで私はまた思い出した。お肉をよりやわらかく仕上げる裏技だ。パインアップルやキウイに、お肉をやわらかくしてくれる成分があるらしい。酢豚に入っている、嫌われ者のパインアップルの要領だ。
パインアップルなら缶詰のものが買い置きしてあった。私は戸棚から缶詰を取り出し、輪切りのパインアップルをそのままワインに漬けてあるお肉の上に乗せる。
次は野菜。タマネギ、ニンジン、ジャガイモを切る。そして油を敷いた厚手の鍋でタマネギ、ニンジンの順番に入れて炒めていく。そこにワインに漬けておいた牛バラ肉だけを取り出して、軽く塩コショウを振り炒め合わせる。そのときに隠し味で、少しだけ昆布つゆも加える。
お肉に色がついてきたら、ジャガイモを半分だけ入れて水を加える。先に入れた半分のジャガイモはほとんど形がくずれてしまうのだが、夫曰くそれがいいらしい。
沸騰したら鍋のふたを少し開けて、アクをこまめにとりながら煮込んでいく。そして頃合を見て残りのジャガイモを加え、さらに煮込む。
次は一度火を止め、三種類のルウを入れてよく溶かしていく。このとき先ほどお肉を漬けていたワインも一緒に入れる。もちろんパインアップルは捨ててしまう。少しもったいない気もするが、もうすぐ世界は終わる。そんなことを気にしていてもしょうがない。
そして仕上げに弱火で再び煮込む。その間に私は冷蔵庫の中から昨日の残りの白いご飯を取り出して、レンジでチンする。
そのとき私の視界に入り込んできたのがコンビーフ。夫の大好物だった。そのまま醤油やマヨネーズをかけて食べるのも好きだし、卵焼きやチャーハンに混ぜてあげても夫は大喜びする。これをビーフシチューに入れてみたらどうだろう。ほとんどわからなくなってしまう可能性はあっても、まずくなることはない気がする。
よし、入れてしまおう。私は意を決すると、コンビーフを空けて軽くほぐしながら家にある三缶全部を鍋の中に投入していく。そしておたまでかきまぜて、しっかりとろみがついたら完成だ。
時計を見る。
十二時四十分。
世界が滅びるまで、だいたい後二時間。
夫と子供たちを起こしにいく前に、私は洗面所に立ち寄った。
そして鏡に向かって、笑顔をつくる。
「大丈夫。ちゃんと笑えてる」
そうつぶやいて、私は寝室に向かった。
私は今から始めるのだ。最後の日常を。今までいくどとなく過ごしてきて、これからも続くと信じて疑うこともなかった……私の幸せの全てが詰まった、昨日と変わらない普通の今日を。
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