第187話「塩冶高貞の乱・後記(前)」
「おお、どうやら生きているようだな」
部屋に入ってこちらを見るなり、不躾に言い放ったのは長兄・
彼が
弟の安否が気になって急いで来たのかもしれない。彼は
重茂はというと、あれからずっと寝たきりである。
傷もそうだが、戻ってきてからしばらくは高熱でうなされ続ける日々だった。
今は多少ましになっているが、職務に従事できるようになるまではまだしばらくかかるだろう。
「随分手酷くやられたな。戦場にいた俺よりも傷が深いではないか」
「四郎の兄上はご健勝のようで」
「矢傷が少し増えたくらいだな。楽な戦いではなかったが」
師泰は遠江で、
宗良親王は
「ときどき
頼遠は
そのとき、宗良の中に何かを見出したらしい。重茂も、以前雑談した折に「あの殿下は危険な存在になるかもしれぬ」と聞かされていた。
「さすがに数の差もあってこちらが優勢ではあったが、どれだけ劣勢になろうと相手の士気は下がらぬし、こちらの隙を狙って度々首を獲ろうとしてくる。あれはなんというか、小さな鎌倉だな。俺は一旦戻ってきたが、気を緩めると痛い目にあいそうだ」
貴人を中心に近隣の武士団が一致団結して事に臨む。
確かに、そういう在り方は小さな鎌倉幕府と言えるかもしれない。
宗良が率いる遠江勢は今後どうなるのか。まだまだ予断を許さない状況のようだった。
「兄上はこのあと北陸へ?」
「後詰が必要になりそうなら出るが、当面は不要だ。
元々塩冶勢は離反する可能性がある上で組み込まれていた。
「だから久々にのんびりできる……と思ったのだが、直義殿からお前の
「お気の毒ですな」
「早く復帰しろ。こき使ってやる」
職務を遂行できない以上、引付頭人を解任されるのは仕方のないことだろう。
それに、実のところ元々師泰に押し付ける方向で直義とは調整していたのだ。
重茂としては、引付頭人という大役から降りる良い口実ができたとも言える。
「あら、父上。こちらに来られていたのですね」
師泰と話し込んでいる途中、部屋に顔を出した二人組がいた。
「はい、叔父上のお着替えです。気分はどうですか」
「特に悪くはない。いつもすまんな」
「ご無理はなさらないでください」
二人は、ときどきこうして寝たきりの重茂のところに来て世話を焼いていく。
ただ、今回は師泰と話している最中だったということもあってか、すぐさま会釈して戻っていった。
「うちの娘は相変わらず良き娘よ。おい、どこぞの悪い男に誑かされておらんだろうな」
「俺が知る限り、藍の身近にいる男は
「師秀は義理とは言え兄弟だからともかく、重教は大丈夫なのか」
「さあ。いつも叱られてるようなので、そういう関係には見えませぬが」
師泰は意外に親ばかなところがあるらしい。
「しかし、隣にいた娘はなんだ。知らぬ間に俺の娘が増えていたのか?」
「そんなわけないでしょう。義姉上も養子迎えるなら兄上に一言相談くらいはすると思いますよ」
重教も師秀も養子だし、
とは言え、それはその場の気分で適当に迎え入れているわけではない。双方の家での合意を確認して迎えている。家長である師泰を無視して勝手に縁組を結ぶことはありえないだろう。
「あれは、
「そんなのが、なぜうちにいる」
「まあ、いろいろありまして。ここに出入りしているのは、藍と仲が良いからですな」
「ふうむ。お前がそうやって説明を濁すということは、お前が一枚噛んでいるな」
細かい事務仕事が苦手でどこか適当に見えるこの長兄は、その印象に反して鋭いところがある。
「まあ仔細を知らぬ俺がどうこう言っても仕方がないか。ただ、火種にならぬよう注意はしておけよ」
「それは勿論。あの娘の素性を知っているのは殿や御方様等ほんの一握りゆえ、大丈夫だとは思う」
「なるほど。うっかり口外しないよう気を付けねばな」
北条の名は、今も決して軽くはない。
百年以上、この日ノ本において圧倒的な存在感を放っていた一族なのだ。
一族が衰退したとは言え、今も
師泰の言う通り、委渡の存在が火種になる可能性は十分あった。
「ああ、義父上に伯父上。二人ともここにいたんですね」
次に顔を出したのは重教だった。
「何かあったのか」
「塩冶一族の処遇が決まったので、お伝えしておこうかと思いまして」
塩冶の名を聞いて、重茂はゆっくりと上体を起こした。
あのあと、京に戻った重茂は
今回の謀反は高貞近辺の独断で起こしたことであり、塩冶一族の総意ではない。
出雲にいる高貞の弟は謀反に加担しておらず、無罪である。
それが事実かどうかは重茂にも分からない。
ただ、高貞はそう言っていた。重茂はそれを頼まれた通り伝えたのである。
「塩冶一族の所領のうち、高貞およびその子息の所領はすべて没収。討伐の恩賞として、
高貞の弟は無罪になった、ということだろう。
塩冶一族の所領の大半は高貞とその子息が持っていたはずだから、損失は非常に大きい。ほぼすべてを失ったと言っても良い。
それでも、繋げられたものはあった。
「どう処遇するかは相当紛糾したようですけどね。殿が将軍になられてからだと初の大掛かりな離反になるわけですから」
中小規模の武士団がやむなく敵方につくという事例は数多あるが、守護クラスの武士が足利に叛いたケースは初である。
処遇の仕方を一歩間違えれば、他の守護クラスの動揺も招きかねない。紛糾するのは当然と言えた。
「また五郎の奴が厳しい処分にすべしと言って、直義殿がそれに待ったをかけるようなことになったのであろう」
師泰の言葉に、重教は頭を振った。
「今回、師直伯父上と直義殿は共に厳しく処分すべしという見解だったようです。ただ、それを殿が最後まで渋っていたようで」
「殿が一人で反対されたのか」
師直と直義の意見が対立したときに尊氏が取り持つことはあるが、二人の意見が一致しているときに尊氏が異を唱えるのは珍しい。
「いかなる理由で反対されたのだ、殿は」
「それが……これ以上、他人の恨みを買いたくないと」
およそ武家の棟梁らしからぬ理由だった。
ただ、どこか尊氏らしいという気もする。
重茂も師泰も、尊氏のそういう一面を知っているので、それ以上は何も言えなくなってしまった。
おそらく、師直や直義が折れたのも同じ理由だろう。こうなると尊氏は、存外譲らなくなる。
「寛大な措置を取った度量の広い将軍――そう触れ回っておくのが良さそうですね」
「まあ、そうだな。理由はともかく、判断自体は別にそう悪いものではない」
体裁が悪くなければそれで良い。
今回の一件から波及的に離反が生じなければ、とりあえずは問題ないだろう。
「ああ、それともう一つお伝えすることが」
一泊置いて、重教はゆっくりと続ける。
「
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