第36話「雲母坂にて(壱)」
京から落ち延びてきた
トップである天台座主が後醍醐皇子の
ただ、後醍醐を受け入れた僧兵たちの士気が思った以上に高い。
「正直なところ、もっと迷惑がるものかと思っていました」
「いろいろと理由はあるのだ、
身体をならすため薙刀を振るう恵清は、穏やかな表情で側に立つ尊澄法親王に視線を向けた。
尊澄は、気が詰まると恵清のところに来る。正確には、叡山内の各地を歩いて回っている。
一つのところでじっとしているのは、性に合わないらしい。
「
「確かに帝――朝廷と山門は一枚岩ではない。朝廷にとって山門は抑え難き難物であり、山門にとって朝廷は油断ならぬ相手。それでも山門は国家鎮護を掲げている。互いに離れがたいものでもある」
「持明院統につくという選択もあったと思いますが」
「そこは帝の治世の賜物であろう」
鎌倉幕府が倒れるまで、後醍醐は天皇として親政を行っていた。
その間、皇子である
後醍醐と持明院統、どちらが勝つかまだ分からない以上、関係性の深い後醍醐に味方しようというのは不思議なことではない。
「上の者たちは分かります。しかし、僧兵たちの士気まで高いのは不思議ですな」
何度か、軽く僧兵と手合わせをした。
まだ本調子でなかったこともあるが、何人か恵清と互角に打ち合う者もいた。
武士として俗世にいたなら、名のある者になっていたことだろう。そういう者が、少なくない。
「見返したいのだと思う。俗世の者たちを」
「見返す?」
「ここにいる僧兵たちは、俗世から追いやられた者も少なくない。周囲の都合によって、栄達も望めず家から離された彼らにとって、俗世の帝に頼られ、俗世の武士を見返すことができるというのは――やりがいのあることなのだろう」
尊澄もそうなのだろうか。
恵清はそう思ったが、口にはしなかった。
そういう気持ちは、恵清にも分からなくはない。
得宗家の家督を継げず、同族との要職争いにも敗れ、自らの意志で捨て鉢のように出家した。
周囲に強要されたわけではないが、俗世に居場所を見出せなくなっていたという点は同じである。
そして、そういう心情を他人に指摘されるのは嫌だと思った。
「恵清殿。この者と手合わせをお願いできるかな」
恵清が薙刀を振るう手を止めたのを見計らって、尊澄が一人の男を恵清に向き合わせた。
品の良さそうな気配を持ちつつ、それを意図的に崩しているようなところのある男だった。
一応僧形ではあるが、どうにも似合っていない。
尊澄の護衛役だと思っていたが、よくよく見ると今日はじめて見る顔である。
男は黙って薙刀を構えた。武器の扱いには慣れているようだったが、力強さは感じない。
勝負は一瞬だった。
瞬時に深く踏み込んだ恵清は、相手の薙刀を足で抑え、眼前に刃を突き付ける。
「参った」
悔しさよりも諦めを感じさせる口調で、男は敗北を認めた。
「俺は、
「あの戦いは、足利の力が決め手だった」
「今は、その足利が敵だ。帝と山門と。俺や貴殿のような男と。勝てると思うかな、恵清殿」
「さあ。ただ、帝は戦うと決めたのだろう。ならば、やるしかないのではないか、
恵清に言い当てられると、男はにわかに驚いたような表情を浮かべた。
千種
「よく分かったな」
「
「そうか。だが、今は千種忠顕ではない。恵清殿と同様、出家の身だ。今は
「道三?」
「廷臣の道、武士の道、僧の道。いずれにも居場所がない男の、拠り所となる名だ」
悪い名ではない。
千種忠顕はいわば北条にとっては仇敵だが、こうして話してみるとそこまで嫌な感じはしなかった。
今は共に俗世を離れた身。因縁はそこに置き忘れてしまったのかもしれない。
「私はな、恵清殿。一旦都を離れた武家を、そのまま帝に帰服させるのは無理だと思っていた。だから、帝の下でそうした武家を束ねる存在になろうと思った。大量の馬を用意し、郎党を集め、訓練のため鷹狩りなども行った。しかし、それでも生粋の武家であるそなたには敵わなかった」
「無駄だと思っているのか、自分のしてきたことを」
「世にとっては無駄であったろう。だが私にとっては無駄ではない。多少なりとも戦を知っているが故に、僧兵たちとも気安く接することができた。貴殿とこうして語らう機会も得た」
「ここは居心地が良いか、道三殿?」
「ああ。公家としては馴染み切れず、武家にもなれなかった。高僧を目指すこともできないであろう私だが、この地で僧兵たちと得物を振るっていると、不思議と孤独を忘れることはできる。ここは、不思議な場所だな」
そのとき、二人の話を聞いていた尊澄が朗々と歌を詠み上げた。
「道絶えし、この身拾うは、山の御手」
「やがて還りて、山満つるかな」
応じたのは道三だった。
「満ちた山は、また新たな身を拾うことになる。そのためにこの地はあるのだ。ここを失えば、身を拾う者がいなくなる。居場所を失った者たちの居場所がなくなる」
「……一所懸命ですな」
「一所懸命?」
「武士は、己が所領のため、一所のために命を懸けます。この地にいる僧兵たちも皆、同じ想いを抱いているのでしょう」
「――そうか。一所懸命か」
言葉の響きが気に入ったのか、尊澄は何度もその言葉を繰り返した。
比叡山の西側に、
陣幕の中では、大将の師久が腕を組んだまま難しい顔をしていた。
そんな師久を注視するのは、同じ高一族である太郎左衛門尉
そこに、周囲の見回りに出ていた若武者が戻ってきた。彼は陣幕に漂う重い空気を察し、しずしずと床几に腰を下ろす。
「四郎左、周囲の様子はどうだった」
「霧が濃くなってきたためあまり深入りはしませんでした。ただ、敵兵からの襲撃は今のところ一度も受けていません」
師久に問われ、若武者――四郎左衛門尉
師秋の弟で、先日まで兄共々足利
師久や
「弥四郎殿、どうかされたのですか?」
「ああ――いや、四郎左が留守の間に
「とは言えこちらは霧のせいで非常に見通しが悪い。本当に手薄かどうかの確証がない。それ故どうしたものかと悩んでいるところだ」
宗継が師久の言葉を補足すると、桃井直常が身を乗り出した。
「要請を蹴ったところでどうせ向こうは動くまい。仏罰が怖いのよ。なら我らが動いて、武功を立てるよりほかにないと存ずるが」
「俺も同意見だ。連中は美味しいとこ取りをする腹積もりなのかもしれないが、なに、こっちで
重成も直常の意見に同調する。
ただ、他の人々は割合慎重だった。
「この辺りは峻険で、一歩間違えれば谷底へ落ちる危険性もあると聞きます。もう少し霧が晴れてからの方が良いのでは」
「我らはこの地に不慣れ。敵は熟知している上に、何か備えをしているかもしれませぬ。私ももう少し待つのが良いかと」
南宗継と桃井義盛が慎重な姿勢を示すと、師秋が「しかし」と応じる。
「吉良殿の要請を蹴るというのは、後々のことを考えるといささか危ういのではないか」
「太郎左殿は細かいことを気にするな」
直常が不服そうに睨みつけると、師秋は嫌そうな顔を浮かべた。
「では、それで吉良殿が機嫌を損ねて三河に戻られたらどうする。叡山に対する包囲が崩れてしまうではないか」
「これだけ軍勢がいるんだ、吉良殿の穴埋めなぞいくらでもできるだろう」
「簡単に言うが、再編は容易なことではない」
「それは俺たちの考えることじゃない。
足利宗家の家人と、足利一門。そういう立場の違いからくる見解の相違に、場の空気は徐々に悪くなっていく。
そろそろ止めるべきかと師久が口を開こうとしたとき、末席からのんびりと声をあげる者がいた。
「……軍の再編は、時間がかかり、隙も出来る。敵に責められるかもしれず、その間に敵の増援が――南や北から来るかもしれず」
どこか眠たそうな顔で訥々と告げたのは、山名時氏だった。
彼が話し出すと、妙に場が静かになる。時氏の声は決して大きなものではないのだが、自然と皆が静聴する形になった。
「仏罰が怖いところではありますが、また京から追い落とされたら怖がることすらできなくなる。なら攻めかかる方が良いと思います」
「おお!」
賛同者が増えたことに、直常と重成が喜色を浮かべる。
ただ、と時氏は付け加えた。
「抜け駆けは厳禁でいきましょう。撤退も原則ナシです。要するに、全体でまとまって勝手な行動を取らないようにする。慣れぬ地でなるべく混乱が起きないようにするのが肝要かと思います」
「無論、そういう命令は出そうと思っています。しかし、皆が命令通りに動くかは分かりません」
「適当にそれらしい恩賞のことを持ち出して檄を飛ばせば多少はマシになるでしょう。見返りをくれる者の言葉なら、案外皆素直に聞くものです」
「勝手に恩賞のことを持ち出すと、後で問題にならないでしょうか」
「具体的なことは言わなくていいんです。あくまで期待を持たせられれば」
時氏の言葉を、師久は胸中で反芻した。
行くべきか、留まるべきか。
焦れた直常が更に何か言おうとしたとき、やにわに師久が立ち上がった。
「吉良殿の要請を受けます。どこまで踏み込むかは適宜判断しますが、まずは我らで戦を動かしましょう」
その場にいる諸将を見渡して、師久は高らかに告げる。
「明朝――叡山攻めを開始します」
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