雨音に乾電池

エリー.ファー

雨音に乾電池

 私は大学生だ。

 ただし。

 大学には行っていない。

 一応学生という括りに入れてもらうことはできるが、それだけである。私がどこに向かい、どこで何をしようとしているかなど、大学は知らないし、私の家族も知らないし、私でさえ知らない。

 残念なことに。

 ただ大学に行かないという怠惰だけが、今の私を構築していた。大学に行かない大学生という存在はおおよそ考えうる限り下等な生物だと思う。見下されて当然だと思うが、なにゆえかプライドだけはかなり高い。

 私自身がそう認識できるのだから、これは間違いがない。

 私は古びたアパートの一〇二号室に住んでいる。

 雨戸を常に閉めていて、湿気がやたらに籠っているが、正直気にしていない。雨戸をあけるという手間を惜しんだ結果なのだが満足している。

 私に日光は厳しいものがある。やはり人工の光があっている。

 そんなことを思っていると。

 雷が落ちたと思うほどの音が響いた。

 雨戸に何かが強くぶつかったのである。

 さすが、古いアパートと言うべきか。雨戸はしっかりと錆びれ、やせ細ったりふやけて大きくなってしまった金属部分がこのように余計に震えて音を反響させるのである。

 部屋中から雑音が鳴り響く感覚。

 それが最も正しい。

 私は雨戸をあけて、ベランダから地面に向かって手を伸ばし、それを拾い上げた。

 乾電池だ。

 私は一つ上の二〇二号室へと向かう。

 扉を開ける。

「おう、遅いじゃあないか。えぇ、青年。」

 僕よりも五つか六つ程上だと思われる髪の長い女性。

 お姉さん。

 が、そこに立ち、僕を迎えてきた。

 いつもの通り、タンクトップにスキニーのジーンズだった。

「また、その服ですか。」

「さっきまではスキニーも履いていなかった。」

「知りません。それより、またこれ。」

「乾電池かい。」

「そうです。これをまた上から投げこんだでしょう。」

「投げ込んではいない。雨戸の中に向かってなんて、そんな無粋な真似はしないよ。」

「じゃあ、何をしたんですか。」

「屋根と壁の隙間がわずかばかりある。そこに投げ込むとね、なんでか分からないが、君の部屋の雨戸にぶち当たる訳だ。」

「投げ込んでいるじゃないですか。」

「雨戸に投げ込んでいる訳じゃない、部屋の隙間に投げ込んでいるだけさ。そう、怒ることではないよ。」

「怒っていません。」

「じゃあ、またその乾電池を使って、君の家の雨戸を揺らしてもいいよね。」

 お姉さんは、僕の手から乾電池を簡単に奪い取る。

「駄目です。」

「なんだ、やっぱり怒ってる。もてないぞ、それじゃあ。」

「僕はもてます。」

「そうだね。もててるもててる。」

「馬鹿にしないでください。今回で、この乾電池を投げ込むのも百回目ですよ。」

「百回は越えてるだろう。ちゃんと数えるべきじゃないかな。」

「二百回だって、こえてますよ。なんなら、ね。」

 その次の日も。

 その次の日も。

 その次の日も。

 僕の部屋の雨戸は鳴り響き。

 毎回毎回、乾電池。

 僕はある日、その乾電池を地面から拾い上げて、そのまま持ち続けることにした。

 お姉さんに返すことはなかった。

 うるさいし。



 二週間。

 それくらい経った頃だろうか。

 大家さんがやって来た。

 二〇二号室の。

 お姉さんが死んだそうだ。

 癌だったそうだ。

 末期の。

 癌だったそうだ。

 もう長くはなく、最後は昔学生だった頃に住んでいたマンションで時間を過ごしたいと大家さんに頼んで住まわせてもらっていたらしい。

 私は。

 そんなことを知って。

 初めて。

 お姉さんの部屋に入った。

 お姉さんは、寝たきりだったそうだ。

 もちろん、起き上がったり歩くくらいのことはできるそうだが。

 それはもう、体力を使うそうで。

 大家さんがたまに病状を確認する時は部屋の中に入って、布団の所にまで行くようにしていたという。体を起こすのさえ、息苦しそうにしていたという。

 僕はお姉さんの寝ていた布団を大家さんに見せてもらった。

 布団の周りには何もなかった。

 何一つなかった。

 メモも、本も、ペンも、ペットボトルさえ、綺麗に布団の周りだけものがない。

 お姉さんは、いつも大家さんに話していたそうだ。

 自分の下の階に、優しい大学生がいると。

 乾電池を投げて下の階の雨戸を鳴らすと寂しい私のために話し相手になってくれるのだと。

 だから寂しくないのだと。

 僕は。

 僕は。

 初めて。

 自分の意思で雨戸をあけたいと思った。

 急いで自分の部屋に戻り、あの時以来、雨戸をあけた。

 ボールペン。

 ハンカチ。

 クリップ。

 丸められたチラシ。

 お箸。

 ヘアブラシ。

 ラムネのケース。

 ピアス。

 ネックレス。

 除光液。

 アイシャドウ。

 口紅。

 地面には。

 何もかもがあった。

 何かも。

 そこにすべてそろっていた。

 お姉さんの体力で。

 布団の上から天井と壁の隙間に投げ込めるほど軽く。

 投げ込んだ後、色々なものにぶつかって壊れないくらいの頑丈さ。

 そして。

 僕の部屋の雨戸を大きく揺らせるくらいの重いものは。

 僕がお姉さんから奪った。

 乾電池くらいしかなかったのだ。

 大家さんは思ったそうだ。

 会いに行くといつも化粧くらいはしていたのに、少しずつしなくなっていったこと。体力が落ちていっているのだろう、気力が落ちていっているのだろう、と。

 そう思ったそうだ。

 最初にピアスをしなくなり。

 ネックレスをしなくなり。

 マニキュアをしなくなり。

 アイシャドウをつけなくなり。

 口紅をしなくなり。

 最後には痩せた女性が息を切らしてそこにいたそうだ。

 僕は雨戸に手をかけながら散らばったすべてを見つめていた。

「そう言えば、あんたは学生さんだろうに。」

 二階から降りてきていた大家さんは、部屋の外で僕のことを見つめていた。

「はい、医学部の二回生です。」

「いいのかい、学校に行かんでも。」

 僕は部屋に置いていた乾電池を静かに外に向かって放り投げる。

 乾電池が風を切る音はいつの間にか降り出していた雨音の中に掻き消える。

「学校には、行きます。」

 着地する音もなければ、転がる訳でもなく、乾電池は地面に横たわった。

 良く映えるのである。

 雨音に乾電池は。

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