第17話 初めまして
017
鍵を開けたユキさんは、背中を押してくれない。こういうときこそ、入る勇気が欲しいのに。彼は待っている。僕は、なけなしの気力を振り絞って玄関に足を踏み入れた。
「あ」
僕の声に反応してか、動く影は物陰に隠れ、恐る恐る片目を覗かせている。完全に警戒態勢だ。
「ソラ、おいで」
優しく呼びかけるユキさんの声に反応するも、僕という存在が気に食わないらしく、リビングの方に行ってしまった。
「……僕のせいですよね」
「警戒しているのかも。紹介するよ」
廊下もリビングも、ユキさんの匂いがした。彼にくっつくとおんなじハーブの香りがするのだ。
「あれ? ソラ?」
タワーにもソファーにもいない。かと思ったら、棚の隙間に入ってこちらを覗いている。
「…………いた」
「放っておいていいよ。あの子がソラね。俺の彼女」
「可愛いですけど、僕が来たからこんなことに……」
「慣れてもらわないと困る。少し馴染んだら、後でおやつでもあげてみようか」
おやつに反応したのか、あっさり顔を出した。これにはユキさんも苦笑いだ。
ソラは隙間から出てくると、引き出しの前でじっとユキさんを見ている。
「おやつとご飯のある場所を分かってるんだよ……寝て起きるとだいたいここにいる」
「賢いなあ」
これがご機嫌を取れる魔法のアイテムなのだろう。ドライタイプのササミを数個取り出すと、僕の手のひらに乗せた。一緒にしゃがみ、ユキさんは僕の手を猫の前に持っていくと、まだ警戒しながらも食べてくれた。
「美味しいのかな? よく食べてくれるね」
「美味しいよ」
「え」
「ふふ」
食べたのか。その直球の感想には戸惑うけれど。久しぶりにユキさんの笑顔を見た。この笑顔を守りたい。
「お茶入れるね。ソファーに座ってて」
立ち上がる直前、頬にキスをされた。嬉しいけれど、中途半端なものは欲を煽るだけだ。少しだけ、もぞもぞする。
ハーブティーと、チョコレートがかかったクッキーを出してくれた。
「晴弥……」
「ユキさん、寒いですか? ちょっと震えてる」
「癒して」
「癒す……僕が」
「うん……癒して」
子供の駄々っ子のように、ユキさんは僕の肩に頭をぐりぐりしてくる。
「どうぞ」
「え、いいの?」
「ああ……失敗だった……ここまではやりすぎた……」
「いやいや、有り難く頂戴します。手握ってくれたり、ハグを想像してたよ」
ぼすんと膝の上に転がり、ユキさんは大きな身体をコンパクトにまとめた。ソファーの上が狭そうだ。
「ああ……幸せ……仕事の後の癒しって大事だなあ……」
仕事を意味するものは、普段の仕事を意味しているわけじゃない。
生き別れの父と対面し、思うところがありすぎるんだと思う。ユキさんが話さない限り、僕は聞くべきじゃない。
「マネージャーと、喧嘩してきた……なんであんな人と連絡先を交換していたのかって。後で謝る……」
「はい……その方がいいかと思います」
「晴弥は……知っていたの?」
「篠田教授ですか? まさか。そもそも、ユキさんと名字が違いますし」
似ているところがある、とは口にしない。喧嘩の火種を自らばら撒くなんて、暴挙すぎる。好きな人と言い争う辛さは、身に染みて心が冷ややかになった。
「図書館でのいざこざを見ていた篠田教授が、走って逃げていた僕を保護してくれたんです。助かりました」
子供のようにむすっとしている。
「えと、ユキさんもありがとうございます。仕事中でしたよね?」
「打ち合わせは切り上げてきた。明日に持ち越し。俺のことはいい」
「僕としては、よくないですけど……」
「晴弥に、何から謝ったらいいのか分からない」
「謝罪は要らないです。ユキさん、よくがんばりましたね」
「……本当に?」
「はい。はなまるです」
「小学一年だった頃の道徳のテスト授業を思い出した。俺なりに一生懸命書いた答えなのに、プリントには俺はただのまるで、隣の女の子ははなまるだった」
「子供にとってはそれがすべての結果ですからね。つらい思い出は記憶に残りやすいです」
「家に帰って泣いたあのときが、浄化されていくよ」
「うっかり、ぽろっと涙が零れることってありますよね。僕にとってユキさんのラジオを聴いたときがまさしくそのときなんですけど」
サラサラの髪を撫でつけ、冷えた手を額に当てる。うっかりしたものを見ないように、目元を手で覆い隠した。
あんな形で自分を捨てた親と対面し、僕だったらどんな対応をしただろうか。罵声を浴びせるだけじゃ足りない。手を出さないようにするだけで精一杯だ。ユキさんが頭を下げ続けた数秒間が、いやに長く感じた。あの間、彼は何を思っていたのだろうか。
「おおふっ…………」
人が出すとは思えないような声を上げた。ソラが、棚の上からユキさんの鳩尾めがけてダイヴした。きっと、遊んでほしかったのだろう。口にはおもちゃを咥えている。猫に罪はない。例えユキさんが瀕死の状態になっていたとしても。
「彼女がスイッチを入れてって言ってますよ」
「空気の読めない彼女だなあ。普段はもう少し読んでくれるんだけど」
ボールにあるスイッチを入れると、尻尾がブンブン動き出す。会心の一撃を喰らう前に、ユキさんは廊下にボールを放り投げた。第二波は鎖骨を踏んでジャンプしたものだから、たまったもんじゃない。
「折れては……いません」
「今日のソラは容赦ないよ……」
「元気を出してって言っているんだと思います。ほら、心配そうな目で見てる」
膝枕状態のユキさんからは見えないが、心配どころか必死になっておもちゃで遊ぶ姿は、とてもじゃないが見せられない。寝ていて良かった。
「いや、でもさ、元気出たよ。ありがとう。膝枕なんて初めてだ」
「初めて? ほんとに?」
「本当」
「……うれしい」
「俺も、嬉しいよ」
起き上がったユキさんと少しいちゃいちゃし、冷めたハーブティーとクッキーをつまんだ。
お茶飲んでて、と言うユキさんはリビングから出て行ってしまった。おもちゃに飽きたソラはユキさんが寝転んでいた位置を陣取り、毛繕いを始めている。触らせてくれるほど仲良くなったわけではないけれど、少しは慣れたと思いたい。後でユキさんに、ストレスにならない触り方でも聞こう。
戻ってきた姿を見てクッキーを持つ手が止まる。
「どうしたんですか?」
「晴弥の家に行くから」
「…………ちょっと待って下さい」
「お母さんは甘いもの好きなんだよね?」
「好き……ですけど」
紙袋の中には菓子箱が二つ入っている。
「な、なんでスーツ……」
ユキさんにスーツは卑怯だ。こたつにみかん、和菓子に抹茶くらいは最強の組み合わせだ。むしろみかんが負けるかもしれない。からあげにマヨネーズも敗北する。
「本気で? ダメですって」
「なぜ?」
「だって……あの人が……」
「お父さんがいるのなら、なおさらご挨拶したい。行こう」
「でも……」
「いずれ通る道だよ。俺も初体験だから、かなりドキドキしているけど」
ソラは廊下に行き、もう見送りの準備を整えている。いつもこうしてユキさんを送っているのだろう。準備ができていないのは僕だけだ。
心をリビングに残したままユキさんの車に乗り、はちきれそうになる心臓をなんとか抑えようと胸に手を当てたり軽く叩いたりしてみた。無意味だった。
徐々に見慣れない道からよく知る通い慣れた道に変わっていくと、ユキさんも口数が少なくなっていく。口をしっかりと閉じ、目線は変わりゆく景色であっても、気持ちはどこか見知らぬ世界に自ら飛び込んでいる。
「着いた」
近くの駐車場に停め、ユキさんは紙袋を持って車を降りる。僕もそれに続いた。
「どこかおかしいところはない?」
緊張を解すように、ユキさんはゆっくりと一回転をして見せた。
「牛乳とカステラくらい、最高の組み合わせです」
「紅茶にスコーンも最高だよ。それじゃあ、行こうか」
駐車場に停める前に家の前を通ったら、車があった。父は帰っている。ユキさんに押させるわけにはいかないので、僕がインターホンを押した。
『はあい? 晴弥?』
「入っていい……?」
『どうしたのよ? 入ってきなさい』
顔は見えているはずなのに、母には戸惑った様子はない。玄関のドアを開けると、いつも通りの見慣れた姿で、でも嬉しそうに出迎えてくれた。
「あの、母さん……」
「おかえりなさい。そちらの方は?」
分かっていて聞いていますよという心の声がダダ漏れだけれど、恥ずかしながら紹介した。小声すぎて「え?」と言われてしまった。
「突然お邪魔致します。晴弥君とお付き合いをさせて頂いております、遠野雪央と申します。ご挨拶と、本日は大事な話があり、参りました」
「まあ、まあ……上がって下さいな。ぜひ夕飯も食べていってね」
「ありがとうございます」
めちゃくちゃ恥ずかしい。穴があったら埋まりたいほど恥ずかしい。その上で、頭上に土をかけてもらいたい。
母さん、ユキさん、僕の順で続いていき、リビングには新聞を読む父がいた。いずれこういうときは来ると分かっていても、最大の難所は簡単には越えられない。母さんはユキさんを簡単に紹介する。案の定、眉間の皺は消えることはなかった。ユキさんの挨拶には頷くだけで、自ら頭を下げようとしない。こんな大人には、なりたくない。
「お母さん、息子さんのことで大事な話があります」
「何かしら? リビングの方がいい?」
「できれば、ご家族の方、全員に聞いて頂きたい話です」
「それなら、お姉ちゃんも呼ぶべきかしら」
「姉さんには僕が話した」
ユキさんの真剣な目を見て、ようやく僕も覚悟が決まった。
ソファーにふたり並んで腰掛け、テーブルを挟んだ向こう側には、母と父が座る。父は腕を組んだまま動かない。
ユキさんは遅れましたと言葉を添え、二人に名刺を差し出した。
「DJ……え?」
「芸能界で仕事をしております」
母は僕とユキさんを何度も交互に見ては名刺に視線を落とし、目を丸くした。
「クイズ番組に出てた? 晴弥、確か録画していたわよね?」
「うん……そのユキさんだよ」
「どうやって知り合ったの?」
「えと……文化祭で」
前からの付き合いはあるけれど、ここはそんなに詳しく語るべきではないだろう。
「とても、言いづらい話でもあります。最近、私は顔出しの仕事も増え、週刊誌の記者に目をつけられていました。私と晴弥君が一緒にいるところを写真に撮られ、記事にされてしまいました」
「ユキさんやめて」
謝るのはユキさんじゃないのに、深々と頭を下げる様子は、すべてを背負い込もうとしているみたいだった。
そんな姿は見たくない。
「今日も、晴弥君の通う大学に記者が不法に入り込み、警備員の方に助けて頂きました」
「そんなことが……」
「彼とお付き合いでき、浮かれていた私の失態です」
何度目か頭を下げたとき、母は顔を上げて下さいと言った。
「息子が何か抱えているんだと思っていたけれど、まさかそんなことがあるとは思いませんでした。母として、とても情けないわ」
「別に母さんのせいでもないし」
僕の回りの人は、なぜ自分を責めるのか分からない。
「何かあって高い壁に出会うのは、何もふたりだけじゃないのよ。母さんだってそうだったわ。同性だと風当たりが強いかもしれない。でも、母さんはいつもふたりの味方でいるから」
「……それって、認めてくれるってこと?」
「もちろんよ」
「一度守れなかった身でありながらおこがましいですが、私は、これからも晴弥君とお付き合いをしていきたいと思っております」
「嬉しいわ。あの……本当にありがとう」
眼球近くまで届いていた涙は引っ込んだ。なぜか母さんが、泣きそうに声を枯らしたからだ。
一度も言われたことはなかったけれど、同性愛だと風当たりが強い。きっと、母さんの本音だったろうと思う。僕の将来を心配してくれて、見守ってくれていたからこその涙だ。
相変わらず、父は何も言わない。ユキさんに挨拶をされたときより、顔がしかめっ面になっていた。
理解は求めていない。放っておいてほしい。
夕飯は、寿司でも取ろうかと話になったけれど、ユキさんが今作っている夕食が食べたいと言い、なぜか母さんの頬が赤くなった。いくら僕の天使でも、それは許さない。でもちょっとだけ、緊張した身体の力が抜けた。受け入れてもらえているんだと思い、ほっとする。
「パエリアなんて、家庭で作れるんですね……」
「お父さんは洋食があまり得意でないから、別メニューなのよ」
無理やり交える父の話も、僕は話半分で聞いていた。ユキさんが気を利かせても、一言も話そうとしない姿勢に、いつも以上に鬱憤が溜まっていく。
もし、僕が同性愛者でなければどうだっただろうか。彼女を連れてきて、和やかな雰囲気のまま夕食会になっただろうか。女性を連れてきたところで父の性格が変わるわけではなくとも、目くらいは見てくれたかもしれない。
母さんは箸を置いて、揺れる瞳をユキさんに向けた。
「うちの晴弥を好きになったのは、男性だから? もし女の子だったら、好きになっていたのかしら?」
「そうですね……女性が恋愛対象として、全くならないわけではありませんが、少々苦手です。たらればの質問はあまり答えるべきものではないと感じています」
「そうね……ごめんなさい」
「ですが、先ほども誓った通り、この先も末永く一緒にいたいですし、将来も考えております。絶対に喧嘩しないなどとは言えませんが、晴弥君と乗り越えていきます」
ふたりで話したことのない話題が盛り沢山すぎて、割って入るのも忍びなくて、彼の思う将来の設計図に耳を傾けた。
「雑誌の件については、個人のラジオでファンの方にお話しするつもりです。理由は、何かしら発信しなければ記者に追われる生活が続きます。記者対策が主な理由です。晴弥君も納得してほしい」
納得もなにも、ユキさんに任せるしかないのだ。たまにユキさんは、突き放す言い方をし、なぜなのかずっと考えていた。芸能界には僕には知らない何かが蠢いていて、その手から守ろうとしている。僕は守られっぱなしだけれど、彼に任せるしかない。
帰り際、ユキさんは父に頭を下げるが、見向きもしない。こんな人が親だと思うと、恥ずかしい。穴があったら入りたくなる感情は、彼にはないのか。
クリスマスの泊まりのことも承諾も得たし、初めての顔合わせは成功だと思いたい。
「父親が、すみません。あんなので」
「可愛い息子を取られて、しかも男で、複雑なんだよ」
少しも気にする素振りはないのは、ユキさんが神様だからなのか。
「そう見えます? どう見ても息子の存在を排除しようとしてるようにしか思えない……」
「息子だからこそ客観的に見えないものだよ」
「……そうでしょうか」
ユキさんもユキさんだ。自分の父親のことは客観的に見られない。完全に殻に閉じこもり、少しのヒビも修復してしまう。しかも分厚くて、音も聞こえない空間だ。
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