6話 忘れえぬ女(ひと)

忘れえぬ女(1)

 その日、午後の講義が休講になって時間が空いてしまい、バイトまでの時間を潰すため由香奈は一度マンションに戻った。エントランスでは管理人の藤堂が掲示物の貼り替えをしているところだった。

 区民秋祭りの出店の募集。道路工事のお知らせ。市民ホールの十月の催し物。

 いちばん端に、春にこのマンションに越してきたときからずっと貼りだされている美術展のポスターがある。

 きれいな女の人の絵。由香奈は掲示板を見るたびに、この絵の女性の眼差しにぼーっとなってしまう。


「知ってるか?」

 藤堂が尋ねてくる。この絵のことなら、由香奈はこのポスターで初めて見た。だから静かに首を横に振る。

「ロシアの画家イワン・クラムスコイの絵だ。原題は《見知らぬ女》。だが《忘れえぬひと》という邦題の方が受けているらしい」

 確かに。とても文学的なタイトルだ。


「でもこの展示会、とっくに終わっちゃってるのですね……」

「はずした方がいいか?」

 とっくに期日のすぎている美術展のものならば撤去するべきかと、藤堂は由香奈に訊いてきた。由香奈は慌てて首をまた横に振る。

「このままが良いです」


 藤堂は黙って頷いた。なんとなく会釈を返し、由香奈はエントランスを抜けてエレベーターホールへ行く。

 表示を見上げながら待っていると、降りてきたエレベーターには五階の彼女が乗っていた。


「あれ、もう帰り?」

「また後でバイトに行きます」

「昼ごはん食べた?」

 首を横に振る。

「じゃ、一緒に食べ行こう。ギフト券貰ったんだ。奢ってあげる」

「え、ええ?」

 突然のことにただ驚く。手を握って引っ張られ、由香奈はエントランスへ引き返すはめになる。

「店混んじゃう前に早く行こ」


 管理人室の小窓から、藤堂が二人の姿を見送っていた。





 近くのハンバーガーショップに由香奈を引きずっていき、彼女は期間限定ハンバーガーのボリュームセットをふたつ購入した。

「奢るって言ってもこんなもんだけどさ」

「いいんですか?」

 ベーコンと卵が挟まっているこのハンバーガーを、由香奈は一度食べてみたかった。

「どーぞどーぞ」

  彼女は笑って先にハンバーガーにかぶりついた。まだ熱いハンバーガーの包装紙を開け、由香奈も食べ始める。

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