3-4 お風呂で水に流します!

 ぐったりと走り終えた頃には、もう夜の十時を回っていた。

「よし! おまえら今から風呂だッ」

 教官の言葉に、あたしたちは顔を見合わせた。こんな時間に普通、お風呂は開いてないはずなのだけれど。それでも助教らまで、「そうだよなぁ」「風呂の途中で呼び出しちまったしな」と、穏やかな顔をして言い合っている。


「よーし、そうと決まったら、おまえら。風呂の準備をしろ。集合時刻は現在時から八分後。集合場所は――」

 そのとき。教官はにやりともしなかったけれど。きっと内心ではにやにやしてたに違いないと、あとになってあたしは確信した。

 とにかく、教官はハッキリと、迷いなく言った。


「集合場所は、だ」


※※※


「づめだぁぁぁぁッ!」

「なんだレンジャー小塚。なんか言ったかぁっ?」

「レンジャーっ!」

 ホースで水をかけられながら、小塚さんが半裸で叫ぶのが聞こえて、あたしは半笑いになりそうな口元を必死に堪えた。


 お風呂セットを片手にあたしたちが集まると、外の水道を使ったが開催された。まだまだ日中は暑いとは言え、涼しさの出てきた夜間の水浴びは、ハッキリ言って冷たくて仕方ない。でも、寒さを考慮しても、汚れと不快感を落とせることの方がずっと魅力的に感じられて、あたしもタンクトップ姿で思いきり水をかけてもらった。


「あんたも良くやるわねー」

 少し離れた安全地帯で、志鷹三曹が呆れたように、タオルで髪を拭くあたしに言う。

「そう? まぁ冷たいけど。でもさっぱりして気持ち良いよ」

 本当は素っ裸になりたいくらいだけど、それはきっと男子学生たちも同じ気持ちだろうから、仕方ない。志鷹三曹は信じられないと首を振り――ふと、その顔を歪ませた。

「あんた。なに、それ」

「え?」


 志鷹三曹の視線は、ハーフパンツからのびたあたしの足に注がれていた。たたたと近づいてきて、あたしの膝裏をじっと見る。

「赤く化膿し始めてるじゃない」

「あー。今日のプールで、バイ菌入ったかなぁ……」

 傷口が汚れたあとすぐ洗わず、しかも戦闘服で長時間動いたせいで擦れて、痛みは増していた。今はテンションがハイだからそこまで気にしていなかったけれど、明日になったらもっと痛いかもしれない。

「これ、ロープでの傷でしょ。なんでちゃんと手当てしてないの」

「いやぁ、なんかバタバタしちゃって。毎日の片付けと準備で手一杯で、そこまで回んなかったって言うか」

「あんた衛生のくせに、なにやってんのほんと。部屋戻ったら、すぐ手当てしなさいよ」

 志鷹三曹はそう言って顔を上げると、途端、さっきとは違う角度に眉を寄せた。


「なにその顔」

「え、顔がどうかした?」

「にやにやしてる。気持ち悪い」

 言われて、あたしは自分の顔をペタペタとおさえた。助教らに気づかれないよう、顔の下半分を手で隠す。


「……なんか、嬉しくて」

「嬉しい? 怪我が?」

 「やっぱりドMじゃない」と引きぎみに言う志鷹三曹に、「そうじゃなくて」と慌てて付け足す。

「レンジャー志鷹に心配してもらえたのが、嬉しいって言うか」

「そんなの。構われたがりの子どもじゃないんだから。やめてよ」

「だってあたし、レンジャー志鷹のこと尊敬してるから」

「……はぁ?」

 思いきり怪訝けげんな顔をする志鷹三曹に、「だってだって」とあたしは、また笑ってしまう口がどうしようもなくて、隠しようもなくて、それでもこの気持ちを伝えたくて続けた。


「あたしね。さっき、転んだとき。ちょっと心が折れそうになったんだけど。レンジャー志鷹の言葉を思い出して、頑張れたんだ。自分に負けるもんか、って。もっとやり抜くんだって」

「自分に負けない……って」

 あたしの言葉を聞いた志鷹三曹は、でも、思いきり首を傾げた。

「わたし、そんなこと言った?」

「言ったよー。レンジャー塔で。ほら、胆力テストのとき」

 志鷹三曹は腕を組むと、しばらく考え込むようにうつ向き。

「……あぁ、あれ?」

「そうそう、あれ」

 こくこくとあたしが頷くと、志鷹三曹は「違うけど」と軽く手を振った。

「え?」

「あれ、別に自分に負けないとか、そういう意味じゃないから」


 あっさりと語られた言葉に、今度はあたしが「え?」となる番だった。「あれはね」と呟き、志鷹三曹が回りでギャッギャと声を上げている男子学生らや助教らを見回す。ふと、目線を止めるとふるふると首を振って。

「女がレンジャーになんかなれるわけないって、あたしが女だっていうだけでマウント取りたがる男どもに負けないって。そういう意味。あいつら、訓練が無事終わったら、全員つぶしてやんだから」

「え……」

「だいたいねぇ、アメリカ陸軍には女レンジャーだってもういるんだから。自衛隊レンジャーがそうなれない理由なんて、ないじゃない。男がめんどくさがってるだけなのよ。女がいると、トイレもその辺で自由にできないし?」

 そういえば、前にもそんなこと言ってたなと思い出す。語り出すと長くなるようで、どうやらそのへんは、志鷹三曹の地雷の一つらしい。ってことは、もしかして、誰かになにか言われたことがあるんだろうか。


 ふん、と胸を張る志鷹三曹を見て、あたしは「ふへっ」と変な声を漏らしてしまった。

「そんな。あたし、全然、勘違いしてて……ふへへ……ッ」

 テンションがおかしいせいか、笑いが自分で止められない。そんなあたしを、志鷹三曹は更にドン引きの目で見ていたけれど。

 ――それでも。あたしをあのとき引き上げてくれたのが、バディである志鷹三曹の言葉だっていうことは間違いない。


 目の前で、びしゃりと志鷹三曹に水がかかる。「おまえら、なにこそこそやってんだ! レンジャー志鷹もさっさとしろっ」と沖野助教が声をあげた。「レンジャー!」と返す志鷹三曹の顔は、迫力があって。沖野助教はきっと、志鷹三曹の「つぶす」リストに入ってるんだろう。


 跳ねる水しぶきが、月明かりにきらきらと輝いて。お腹はすいたし、これから今日の片付けと、明日の準備と。まだまだやることが残っているし、ろくに眠れずに明日が始まるのだと思うと、また少しへこみそうにはなるけれど。

 それでも、あたしの気持ちのよどみは、この冷たい水と一緒にいくらか流れた気がする。


 ――けど。

 そんな、あたしの気持ちとは無関係に。次の日あたしたちは、いつの間にか男子部屋から一人分の荷物が綺麗になくなっていることに気がつき。今期訓練一人目の脱落者が出たことを、知ったのだった。

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