チョコより苦くビターより甘い
揣 仁希(低浮上)
BAR『Sun do Leon』
茜色の空を群青色が押し退け次第に街に灯り出す頃、私はベッドからもそもそと這い出して仕事へと向かう準備をする。
クローゼットから取り出したのはすっかり身体に馴染んだ黒のスーツ。
「よしっ!準備オッケー」
部屋の姿見の前で服装をチェックし私は、ぱしんと頬を叩き気合いを入れ部屋を出てリビングへと顔を出す。
「あ〜そっか、この時間だと
誰もいない寂しげなリビングのテーブルにはラップがかけられたサンドイッチとお決まりのメモ帳が置いてあった。
『お疲れ様、頑張ってね。凪沙
PS 千尋、愛してる』
うふふ、もぅ可愛いなぁ。
メモ帳の隣には彼と一緒に行った水族館で買ったお揃いのボールペン。
青いイルカは彼でピンクのアザラシは私。
サラサラっとメモ帳へとペンを走らす。
『いってきます♡
PS 凪沙いつも愛してる』
彼のメッセージへ私が返事を、私のメッセージには彼が返事を。
ボールペンのインクが減る速さも大体同じ。
私はサンドイッチを頬張り玄関を開け仕事へと向かう。
夕暮れの街にはもうすぐ夜の帳が下りる。
会社帰りの人達の中を縫うようにして通りを歩いていく。
商店街を抜け繁華街から少し外れた静かな通り、華やかな夜の蝶が飛び交うのではない若干落ち着いた通りの坂道の途中。
階段を少し登り重厚な木の扉を開ける。
扉の隣に控えめに印された銀色の文字。
『San do Leon』
「おはようございます」
「いらっしゃい、おはよう」
カランカランと扉に備えつけられたベルが鳴りカウンターの向こうで今日の仕込みをしていたオーナーが顔を上げ柔らかな笑みを見せてくれる。
このBAR『San do Leon』のオーナーでありバーテンとしての私の師でもある
初めて出会った頃から少しも変わらない柔和な笑顔にきちんと纏められた白髪と咥えタバコ。
「オーナー、カウンター内での煙草はご遠慮願います」
「まだ開店前だし、かまわないだろ?」
「…………」
「……そんな睨まんといてくれ。美人に睨まれるとこたえるから」
態とらしく肩をすくめる仕草をし灰皿に渋々と煙草を押し付けるオーナーを横目にカウンターに入り開店の準備を進める。
「やれやれ、凪沙君の前とでは違いすぎやしないか?」
「当たり前です。仕事ですから」
それはもちろん当然だ、なんと言っても凪沙くんは私の愛しの旦那様なのだから。
扇 凪沙、新進気鋭のパティシエで元この店のバーテン。それが私の愛しの旦那様だ。
私と凪沙くんはこの店で知り合い、恋に落ち結婚した。仲を取り持ってくれたのはかく言うオーナーだから私の旦那様に対する態度も良く知っている。
でもそれはそれ、これはこれだ。
仕事場に私情は持ち込まないのが私の決めたルール。
だから私はここでは、扇 千尋ではなく旧姓の郷中 千尋で通している。
カウンター席が12席とテーブル席が2つだけの小さなお店ではあるけれど、週末ともなれば満席が閉店まで続く人気店でもある。
賑やかさと猥雑さからは程よく遠く、緩やかに流れる時間を楽しみたい大人が集う場所。
カウンターとテーブル席の奥にはちょっとしたスペースがありピアノが置かれてある。
訪れるお客様が即興で弾いたり、JAZZバンドの演奏があったりと隠れた名物といっていいと思う。
オーナーがギターを奏でることも多く、かく言う私がピアノを弾くことも多分にある。
この職に就くまでずっとピアノを弾いてきた私だ。幼い頃からプロになるのが夢だったがそう簡単なものではなくて……必死に努力を重ねても圧倒的な才能の前では逆立ちしても敵わないことを身をもって知った。
自分自身にも才能があるはずと思いずっと続けてきたがそれは単なる思い込みに過ぎず、「人より上手くはあるがそれ以上にはなれない」それが私にピアノを教えてくれた師の言葉だった。
毎日誰かしらが弾き、随分と年季の入ったピアノを拭きつつそんな過去の自分を思い出し苦笑いする。
「まだ未練があるかい?」
気がつけばオーナーが愛用のアコースティックギター片手に隣に立っていた。
「ない……と言えば嘘になります……ね」
拭いたばかりのピアノの鍵盤を指先で、ついっとなぞりポロンポロンと音を確かめる。
「開店まで時間がちょっとあるからどうだい?一曲」
そう言ってオーナーがギターを爪弾く。
80年代のアメリカで人気だったスタンダードソング、田舎から出てきた若者が夢を掴むまでを歌ったその曲は当時のアメリカで多くの共感を呼んだ。
ピアノの前に座りオーナーのギターに合わせて鍵盤を叩く。
静かに緩やかに、徐々にしなやかにそして激しく。
ギターの音色とピアノの旋律が絡み合い……そこへもうひとつの音が重なる。
「ちょっと覗いたら楽しそうにしてるんだからなぁ」
「ははは、そろそろ来ると思っていたよ。藤堂君」
「ふふっいらっしゃいませ、ご注文はこちらでよろしかったですか?」
「今晩和、オーナーに千尋さん。もちろんだとも」
そう言ってベースを弾きつつニヒルな笑みを浮かべる藤堂さんはオーナーより少し年下で貿易会社の会長をしている方だ。
この店の常連さんで、いつも決まって開店前にやってくる。
こうして開店前の店でオーナーや私とセッションをするのはもはや日常とも言える。
私のピアノに合わせギターとベースが軽やかに舞い店内を彩る。
カランカラン。
「おっ、やってるやってる」
「な?言ったとおりだろ?」
「こんばんは、あれ?もう始まってるのかい」
「こんばんは、ありゃ?出遅れたか?」
気がつけば開店時間を過ぎており続々とお客さんが入ってくる。
皆思い思いの席に着き音楽を楽しむその姿は私にとってこれ以上ない喜びのひとつだ。
プワッパッパー とトランペットの音が響いてまたひとりセッションに加わると、「さ、千尋さん交代しようか」とまたひとり。
「ではお任せ致します」
少しだけ連弾をした後、私は鍵盤を離れ一礼をしカウンターの中へと足を運ぶ。
「改めまして、San do Leonへようこそ。ご注文はお決まりでしょうか?」
美味しいお酒と肴にはもってこいの素晴らしい音楽。
私は注文を聞き、慣れた手付きでカクテルを作っていく。
BAR『San do Leon』
ここは都会の喧騒から外れた場所にある、大人達のちょっとした隠れ家。
一日の終わりに始まりが重なる場所。
今宵も良き一日が始まりますようにと。
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