episode10 波打ち際にて、大嫌いなあなたと、レモンスカッシュで乾杯を

第12話

 出掛ける支度を整えて、アパートの扉にかぎを掛けたとき、日常がまた少しだけ変化していく予感があった。新しい日々の幕開けを感じた理由は、いくつもある。

 一つ目は、廊下に射した朝日によって、壁にのびた影の髪型が、ポニーテールではないということ。出勤時には髪をまとめているので、くくらずに出掛けるのは久しぶりだ。二つ目は、鍵を持っていないほうの手が、キャリーケースの持ち手を握っていること。お盆や年末年始の長期休暇以外で、キャリーケースに着替えを詰めたのは、一体何年ぶりだろう。旅先の服として薄手のカーディガンを加えたときに、秋の涼しさが目前もくぜんまでせまったことを意識した。

 そして、最後の三つ目は――これから『波打ち際』に向かう理由が、仕事のためではなく、連れをむかえに行くためだということ。キャリーケースを持ち上げて、階段を下りた果澄は、雇用主こようぬしの自宅けん仕事場を目指して、雲一つない青空の下を歩き出した。


     *


 喫茶店『波打ち際』の前に着くと、すでに身重みおもの同級生の姿があった。緩く巻かれた茶髪が、初秋の風になびいている。果澄がキャリーケースを引く音に気づいたのか、ギャザーが入ったジャンパースカートをひるがえして振り返り、「果澄、おはよう」と挨拶あいさつして笑っている。背負ったリュックは軽そうだが、果澄は眉根まゆねを寄せて文句を言った。

「おはよう。自宅で待ってて、って言ったのに。なんで荷物を持って外にいるのよ」

「そろそろ来るかなーと思って。これくらいの重さは平気だよ」

 翠子は、遠足前の子どものようにニコニコしている。果澄は、呆れまなこ嘆息たんそくすると、翠子の背後をふと見つめた。青い窓ガラスがはまった『波打ち際』の木製扉には、臨時休業の張り紙が出されている。

 休業期間は、九月末の三日間だ。月曜の定休日と合わせれば、四日のあいだ休むことになる。短期間とはいえ、せっかく営業を再開させた喫茶店を、また閉めることになるなんて、夏が終わる頃には想像だにしなかった。

 果澄の視線をたどった翠子は、目を細めた。物憂ものうげな顔をしたのは一瞬で、迷いはとっくに断ち切っていると言わんばかりに、明るい顔をこちらに向けてくる。

「それじゃ、行こっか。あたしたちの故郷こきょうに」


     *


 通勤ラッシュが落ち着いた電車はいていて、さいわいにも翠子は、ずっとシートに座ることができた。故郷には二時間ほどで到着するので、スムーズに電車の乗りぎさえできれば、昼前には最寄り駅に着くだろう。車窓から射す白い陽光ようこうに包まれながら、果澄は先日の出来事を回想した。

 ――『臨時休業で、お店を何日か閉めたいと思ってるんだけど、いいかな』

 果澄が『波打ち際』で初めてコーヒーを淹れた早朝に、カウンター席で真剣な目をした翠子は、ふっと表情をゆるめると、上目遣いで果澄に言った。

 ――『その休業期間を使って、帰省きせいしたいんだ。実家の両親と、しっかり話したいって考えてる。あたしが、元旦那と別れて、喫茶店の店主になって、シングルマザーとして生きていくことを、あたしの両親は、心から認めてくれたわけじゃないから。実は、お盆に帰ろうかなって迷ってたけど、仕事を優先しちゃったんだよね』

 翠子から両親の話を聞いたのは、このときが初めてだった。天真爛漫てんしんらんまんな翠子でも、家族との間に確執かくしつかかえている。そんな実態じったいを知らされても、さほど意外に思わなかったのは、果澄が翠子を見る目が変わったからに違いない。

 ――『今のあたしの生き方を、両親に認めてもらえなくても、仕方ないって思ってた。佐伯さえきさんが『波打ち際』をはなれたときも、似たことを思ったっけ。でも、喫茶店が居心地のいい場所になるように、果澄があたしと一緒に努力してくれたり、ここで過ごす毎日を、もっと素敵にしようとしてくれたり……どんどん格好いい顔つきになる果澄を見てたら、あたしも、まだ諦めるには早すぎるよねって思えたんだ』

 翠子は、好戦的な笑みを咲かせると、腹の膨らみを見下ろした。

 ――『たとえ家族でも、自分とは違う人間だから、心から分かり合うのは、難しいよね。でも、あたしは両親のことが大好きだし、あたしの生き方を誰かに否定されても、大好きな人たちには、今の道を祝福しゅくふくされて歩きたいんだ。きっとそれは、生まれてくるこの子のためにも、必要なことだと思うから』

 ――『うん。……いいと思う』

 提案を受け入れた果澄は、照れ臭さを感じながら返事をした。すると、なぜか翠子まで少し照れた顔になって、おずおずといった様子で言葉を続けた。

 ――『果澄も、よかったら一緒に帰らない?』

 ――『えっ? なんで私まで……?』

 ――『お盆休みも喫茶店を開けた所為で、実家に帰れなかったでしょ? いつもは長期休暇に帰省してるって聞いてたから、悪いことしちゃったな、って気になってた』

 ――『それは、私が選んだことだから……』

 ――『うん、帰りたくないんだろうな、って思ってたよ。だから、あたしも甘えちゃったけど、今もまだ、帰りたくないって思ってる?』

 核心かくしんを突かれた果澄は、息をんだ。翠子は、眉を下げて微笑んだ。

 ――『故郷に着いたら別行動でも、途中まで一緒に行けたら、あたしも心強いから。もし、果澄も帰りたいなら……あたしの一生のお願い、聞いてくれる?』

 ――『……分かった』

 果澄は、呆れ笑いで承諾しょうだくした。前触れもなくルームシェアを打診だしんされたことに比べれば、ずいぶん可愛いお願いだと思ったからだ。

 それに、いい機会だととらえていた。果澄だって、ゴーヤーチャンプルーを食べた晩夏ばんかから、今月の帰省を計画していた。両親と顔を合わせれば、婚約破棄の件も、新しい仕事の件も、改めて話題に上るだろう。気まずい空気になることも、傷口に塩をすり込まれた気分になることも、どちらも容易に想像できた。

 だが、たとえそうだとしても、果澄の心の中でこれ以上、実家を勝手に居心地の悪い場所にはしたくない。目を逸らし続けたかった現実を、本当は直視したかったという心の叫びを、きちんと受け止められた嬉しさが、果澄を少しだけ強くしてくれた。

「あ、果澄。海が見えてきたよ」

 隣に座った翠子が、弾んだ声を上げた。タタン、タタン、と線路の振動を伝える電車は、乗客がさらに少なくなったことで、正面の車窓が見渡せた。飛ぶように過ぎ去っていく風景は、ビル群が数を減らしていて、代わりに増えた木々の間から、青さを増した大空と――白くかすんだ水平線が見渡せた。久しぶりに見た故郷の海は、一人で車窓から眺めたときよりも、美しく感じたから不思議だった。

「もうすぐだね」

 翠子が、普段通りの軽やかさで言った。「うん」と応じた果澄の声にも、気負きおいがほとんどにじまなかったから、ふっと安らいだ気持ちになれた。

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