噂屋奇譚

津麦ツグム

第1話 風の噂

「人が」「襲ってる」「襲われてるよ」

「人かな」「ヒトだったよ」

「呪いだ」「違うよ」「呪いだね」

「祟りさ」「言祝ぎよ」「夜だ」

「食うんだ」「喰われちゃったね」

「ヒトが」「呪いさ」

「愛かも」


くすくす。くすくす。


何が楽しいのか、あいつらは何時もどこか楽しげだ。好悪の感情だけに振り切れているのだ、と僕は知っている。喜怒哀楽の揃わない声に僕はこいつらが僕とは全く違う、かけ離れた存在なのだと自分に言い聞かせる。そうでもしなければ、間違ってしまう。

線引きは大切だ。境界を引くこと、そしてその境界を守ること。

僕は首元に巻いた布を鼻の下までずり上げた。

どうにも嫌な臭いが湿った空気に混じって流れている。

例えるならば、熟れ過ぎた果実が腐っていく匂いに良く似ている。ぐずぐずに腐敗する果物というのはどこかグロテスクだ。きっと本能的に触れてはならないもの、口にしてはいけないものなのだと脳が判断しているんだろう、と僕は勝手に思っている。


数日前、普段は滅多に使わない黒電話が小刻みに震えながらけたたましいベルを鳴らした。

僕は掃除中にうっかり見つけて読み耽ってしまっていた古い和綴じの本に未練を残しながら電話を取った。

「もしもし、」

「お、千里、どうせ暇してるんだろ、手伝え」

「先輩は相変らず忙しそうですね」

電話の向こうはどうやら街中のようで、ざわざわとノイズが混じっている。遠慮というものをどこかに落っことしてきてしまったらしい先輩はいつだって唐突に頼みごとをしてくる。忙しい人、というよりも積極的に面倒な状況に嬉々として飛び込むのが趣味のような人である。そしてその趣味に付き合わされるのも1度目や2度目までは、どうにも身の置き所がわからなくて戸惑っていたけれど10を超すとそういうものなのだと受け入れる気持ちになってくるものだ。諦めと言ってもいいと思う。

「それで、お前は今暇なんだろ?」

「暇と言えばそうですが、なんですか?」

「仕事だよ、仕事。最近はどうせ引きこもってるんだろ」

「はあ」

なんだよ、と先輩は少し不満そうに呟く。電話の向こう側で唇を尖らせているのが目に浮かぶがいかんせん、僕より5つ年上の、とっくの昔に成人を迎えた男性だ。そんな顔をしたところで僕に思うところはない。

「お前のところから、そうだな、確か電車で半日ほどのところでなんだか面白そうなことが起こっているらしい、という話を聞いたんだ」

「面白そうっていうのは、あくまで先輩視点ですよね」

「そこは保障する。俺が『面白そう』だと思った話だ」

「それが僕にとって面白いかどうかというのは」

「無論、俺には興味もなく知りもしない領域だな。だが、」

先輩が通信の向こう側、受話器の先でにやりと笑った気がした。あながち間違ってはいないと思う。いままでの経験として。

「お前の得意分野だ」

僕は肺の奥に残っていた二酸化炭素を全て吐き出す。

こういう時の先輩はどうにも性質が悪い。断ったところで無駄だと今までの幾つもの経験が耳元で囁いて、僕は頭の中でだけ両手を上げる。

「わかりました、それでどこに行けばいいんですか」

「お前は本当に話が早くて助かるよ」

『霧ヶ谷』というのがその場所らしい。

聞けば僕の住んでいるこの町から電車を乗り継いで半日と少しかかるという。

その時点でげんなりしてしまう。はて、聞いたことがない地名だと僕は首を捻った。

仕事柄、好悪は別として遠出をすることが多いのでそこまで地理に暗いつもりもないので僕はより一層不思議に思った。もっとも、先輩からの依頼で行く場所は大抵が観光地とは程遠いので、聞いたこともない地名が出てくるのも珍しくはない。

「霧ヶ谷よりも、白霧温泉郷と言った方が有名だったか」

「温泉ですか。白霧温泉郷、聞いたことはあります。冬の時期になったらこの辺りでも観光案内のビラが配られていたような。

まあ、自腹を切ってまで足を運ぼうとは思わない場所のひとつですね」

「お前の場合は何処でもそうだろ」

「それで、旅館も先輩持ちですよね?もしくは必要経費として落としても構いませんか?

あとできっちり請求しますよ」

「どのみち俺の金で払うやつじゃねえか、お前は本当にそういうところが可愛くねえな」

「どうとでも。自腹じゃ行きませんよ」

「わかったわかった。どのみち俺も一度そこで実地調査ってもんでもしてみようかと思ってたからな。宿で落ち合おう。あとでお前の「鳥」を寄越してくれ。

詳細はそっちで知らせる」

「わかりました」

それだけ言って先輩は電話を切った。いつものことだ。

自分勝手で自由で唐突で、誰かを巻き込むことに何の躊躇いもない。人の形として、生き物の在り方として、僕とは大きく違っている。そういう人だ。今に始まったことではない。僕は縁側を通って気取って名付けた「書斎」に向かう。先輩に言わせれば「書庫」だそうだ。もしくは「物置」。酷い言い様だと思うがあながちそれも間違ってはいないところがまた微妙に腹立たしい。

古いチョコレート色の扉。真鍮のドアノブを捻る。乾燥した埃の匂いと、古い紙の匂いがゆっくりと足元から這い登ってくる。

小さな部屋だ。4畳半は流石に言い過ぎだとしても、6畳ほどあるかないかという程度の小部屋。壁という壁は高さが微妙に足りない本棚に覆い尽くされていて、それらにはみっしりと本や紙の束が詰め込まれている。元々6畳あったにせよ、使えるスペースは4畳半とさして変わらない。畳半分ほどの大きさの窓から柔らかな陽光が静かに板の間に影を落とす。窓のすぐ下には飴色の天板の机と布張りの椅子。その上で散らばった本と乱雑に重なった紙の束が昼下がりの日差しを浴びて彫刻のように静かに佇んでいる。僕は紙の束を適当に移動させて、使えるスペースを確保した。

「鳥」と先輩が呼んでいるのは僕の数少ない特技のひとつ、伝書鳩よりも多少は融通の利く、そして電話に比べれば随分と時間のかかる方法。文書を運ぶという点に於いては電話に比べて有利だけれどやはり電気の速度には追いつけない。せいぜい伝書鳩とさして変わらないし、なによりも雨に降られるのに滅法弱い。なんというか、微妙に使い勝手が悪いのだ。しかもそれを使える人間というのもそれなりに限られているのがまた使い勝手の悪さを助長させている。

大衆に受け入れられる為には「誰でも使える・技術がなくても使える・もしくはその技術を習得するのにさしたる努力は要らない」という点が重要かつ必要不可欠なのだろうと僕は思う。

その点で言えばこの「鳥」はそこに入れなかった外れものである。

雨ににも弱いというのもそれなりに困るところではあるが、そこは油紙を使うことである程度は克服できるのだが、如何せん、油紙をその為だけに買い漁るのもなんだか馬鹿馬鹿しい。そもそも、この連絡手段を好んで使うのは先輩くらいなもので、大抵の人は他の電話だとか手紙だとかそういうものを使って満足している。

もっとも、先輩はどうやらこの「鳥」の不可思議な見た目やらを面白がっている節がある。

それがみたいから不必要に「鳥」を使いたがる。

僕としては面倒だし迷惑な話ではあるけれど、住所不定の先輩に手紙を送るのも確かに現実的ではないといえばそうだ。

僕は空いた場所に少し厚手の半紙を一枚置いた。裏側には自分でも解読できないほど雑な字で何か書きつけられているが、解読できないということはその程度の興味に留まってしまった「何か」なのだろうと勝手に納得する。半紙はざらりとした風合いの安物だ。どうせ使い捨てになってしまうのだから、この程度で十分。裏紙を使われたと言えばいい顔をする人はいないが先輩に関して言えばそういった細かいことに頓着するような繊細な神経は持ち合わせていない。

大雑把な人間は神経質な人間をさらに苛立たせるけれど、大雑把同士であればさしたる問題にもならない。どの程度僕が先輩のことをないがしろにしているか、というのも推して測れるものではあるけれど、それこそ「今更」の話である。

紙に向かって両手を合わせる。

どう見たって食事前に作法として良く行うあのポーズにしか見えない。

傍から見れば僕は今からまさに食事の替りに紙でも食べるように見えるのだろう。ヤギであったならそれはそれで間違いではないけれど、幸か不幸か僕はヤギではない。

何かを「おねがい」するときに結局のところこの形が一番僕にとっては自然でやりやすいものだったというそれだけの話である。何か呪文のような謎めいた、意味ありげな、そういうものがあればそれないに恰好はついたのかもしれないけれど現実は残酷である。

やりやすい形を追い求めた結果、一番間抜けな形に収まってしまった。

僕の「おねがい」を聞いた半紙がゆっくり乾いた音を立てながら、形を変えていく。それはカモメのようにも烏のようにも、鳶のようにも見える。鳥類であろうことはなんとなくその形でわかるのだが、それが生物学的に見て一体なんの鳥に近いのかは判然としない。僕の少ない持ち合わせから編み出した「鳥の概念」というものが一番近いのだろうと思う。鳥とは大体こういうものである、というイメージが形になっているといえばいいのだろうか。いうなれば、子供が気まぐれに描いた鳥の絵のようなものだ。どこのどういう鳥、ではなく、なんとなく鳥っぽいもの。

もっとも、これも僕の力量不足、努力不足、向上心のなさが成せる技と言えばそういえなくもない。相手の距離と届けたい速度を吟味した上で適宜一番相応しい「鳥」の形にするべきらしけれど、僕はあいにく鳥類の方面に明るくない。あまり興味も湧かなかった。他の方々、特に「これ」に関してそれなりの腕と自信を持っている方々に見習うべきだと頭では思っているけれどそのためにわざわざ鳥類図鑑を読むのをそれぞれの特徴を把握することも正直なところ馬鹿馬鹿しい。届けばいいのだ。届かないことも往々にしてあるけれど。


開け放った窓から鳥の形をした半紙がばさりと翼を広げて飛び立った。

今回は割合良い出来だと自画自賛しながら青空の中だんだんと小さくなっていく鳥を見送ってから僕は大きく伸びをした。早くて今日中には先輩のところに着くだろう。ならば帰ってくるのは明日以降。仕事道具の確認と旅支度、と僕はやることを指折り数えて早くも重くなった腰をどうにか上げた。

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