第16話 本郷美希の捨てきれないもの

 今日は稼ぐぞと張り切って会社からタクシーが次々と出庫して行く。その大半の車はほとんどがあてのない希望的観測にすぎなかった。連れの女がまた店に働きに出て楽観的な松井を除いてはみんな悲壮感が漂っていた。そんな中を山路は本郷美希を迎えに出庫すると目立たない所で回送にして桂離宮の方へ車を走らせた。最初から回送にするといい客を掴んだかと周りからねたまれるその弁明が面倒だった。

 指定した時間に前回の新年会帰りで降りた場所で本郷を待っていた。やって来た本郷は申し訳なさそうに乗った。

 桂から五条通を通って市内を横切り、京都東インターから名神高速道路に入った。後は何もない一本道で米原から北陸道へ入れば敦賀までただひたすらハンドルを握っていれば着く。 

 乗ってから本郷美希はいつもより口数が少なかった。市内を走っている時はそう思わなかった。街角では人の動きやバスや配送の車などがあったが高速道路に入るとプッツリと生活感の有るものは一切なかった。ただ無人の道路と景色が静かなタクシーのエンジン音の中に消えていった。だからずっと車窓から街角を眺めていた本郷の静寂さが目立った。

「昨日は佐藤さんから色々と伺いましたが美咲は口は悪いですがサッパリして根は有りませんからそんなに気にする事はないですよ」

 堪らず山路が宥めるように言った。

 そうねと静かに返された。何か気に障ったかとハンドルを持つ手に余分な力が入った。

「思ったよりも雪が少ないのね」

 山頂が白く見えるのは一際目立つ伊吹山ぐらいだ。後の山並みはくすんだ緑色で、茶褐色は春を待つ広葉樹だった。しかし春を待つのは広葉樹だけではない。数時間も三陸の冷たい海を彷徨っても、なお五年も正体不明の自身と向き合っている人に春を告げられる人を運んでいるが。

「電話でアッサリと見送ってくれたそうで、思ったよりも根のない人ね、美咲さんって云う人は、でもどうして一時別れた、いえ離れたのかしら」

「沢井と云う男の気っ風の良さに一時迷わされただけですよ」

 今だから山路は自信を持てた。

「でも加藤さんの居る旅館の跡取り息子なんですね」

「デパートの家具売り場で営業のかたわらで女将さんのなり手を捜していたらしいです」

「それに引っかかった人なのね、でも美咲さんには向いてないかも知れないわね」

「かもどころか全く向いてません。あの人は接客には向いてないようでね」

「今回はそれが身にしみてそれで家庭に収まる腹づもりを決めたと云う訳ですか」

「それほど単純な子じゃないですよ」

「そうね山路さんが見初める以上はそれ以上の価値が有る人なんですね」

 彼女はチョッピリ羨ましそうに言った。ハンドルを持つ山路にはその表情はうかがえなかった。

「敦賀はどんなところ何ですか」

「日本海に拓けた関西方面に於ける物流の拠点の港ですが」

「敦賀から越前大野は近いんですか」

「同じ福井県で一山越えればすぐに越前ですから」

「三陸に比べれば随分と近いのね五年もそんな所に居たのは自分にあるのでしょうか山路さん ?」

「誰のせいでもありませんよ、時のいたずらですよ」

「時は随分と酷い仕打ちをするんですね」

「その仕打ちに打ち勝ってあの人の運命の欠片を拾う勇気が今はあるのでしょうか」

「そんな明確なものが描けないからこそもっと知りたいのです」

「解りました。水島さんにはメールのやり取りであなたの素性すじょうは書いてますが……」

「ええ ! なんで知らせてるんです」

「ご心配無く悪く書けば会いたい何て書いて来ませんよ、それどころかもっとあなたに肩入れしてくれるかも知れませんよう。それ以上に水島さんは加藤さんに肩入れしているのは 自分と重なる所があるみたいです」

「重なる所……」

「そうですそれは水島さんの過去と重なるところなんです」

 ーー福井で生まれた水島は高校三年生の時に同級生の仁和子になこと恋仲になった。彼女は寺の住職の一人娘だった。水島は生活苦から地元の漁師で生計を立てるつもりだったが仁和子の為に京都の仏教系の大学に無理をして進学した。大学二年の夏も変わらず仁和子は愛してくれていた。夏休みが終わり京都へ戻って勉強を続ける水島の下へ仁和子から両親の勧める見合いをしますが心配しないで下さいと云う手紙を受け取った。少しの不安はあったが仁和子を信じた。その歳の暮れに突然に仁和子から来春に結婚しますから私の事は忘れて下さいと云う手紙が来た。水島は電報を打って直ぐに福井へ向かった。雪の降りしきるホームで仁和子は水島を待っていた。彼女は泣きながら詫びて心配は要らないと言った

 『いつまでもわたしを信じて待っていて下さい必ず説得します婚約を破棄しますそれまで待ってて下さい』と彼女は水島を押しとどめた。その日に初めて契りを交わして毎日逢瀬を続けた。水島はその時はすべての不安を忘れる事が出来たがいつも別れ際にはまた不安が襲って来た。彼女はまた繰り返した『私か許したのはあなただけですだから私を信じて下さい。必ずこの縁談は破談にします無理なら私は両親を捨てますから早く卒業してください待ってます』と京都へ戻る列車の窓際で彼女はそう言って見送ってくれた。

「それが今の奥さんですか」

 しんみりと聴き終えると本郷が尋ねた。

「いや結ばれなかったそうです。暫く京都に居て結婚して未奈子が生まれてカネに困った頃に敦賀の金子船長から船に乗らんかと誘われてまた郷里へ戻ったそうです」

「その後仁和子さんはどうしたのですか」

「音信不通でその内に結婚した噂を耳にしたそうです。そして最近になって親戚の者が法事の席で偶然耳にした話では、両親と見合いの相手にも先ただれて一人で寺を守ってるそうです」

「それを聞いて水島さんは会われてたのですか」

「まだ会ってませんがお互いに風の便りだけが双方の耳を行き来しているそうです。いつかつまらない意地を棄てられる日が突然やって来れば会いに行きたいとメールは占めてました。でも五十を過ぎていればそれもそう遠くない日だと思ってるます」

 もう意地を通す歳じゃない、そのうちに時が会わせると言っていた。

「どうして水島さんはメールで山路さんにそんな出来事を伝える気になったのでしょうか ? 」

「私から加藤さんの身の上を知る内にご自身の事も伝える気になったんですね」

「わたしにその仁和子さんと云う方の二の舞はどうしても避けて欲しいと言う事かしら」

「多分、そうですね、これで水島さんの熱意が解りましたよ。ああ、米原を過ぎて北陸道に入ってますので次のパーキングエリアで休憩しましょうか」


 二人はサービスエリア内の休憩所でコーヒーを飲んだ。そこで山路は会う前にあなたの情報をもっと伝えて置いたらどうですかと提案した。これには彼女は躊躇した。

「さっきの水島さんの身の上話ですが機会があれば本郷さんの耳に入れて置いてと頼まれてもいるんですよ」

「どうしてですか ?」

「とにかく岡田さん、いや、この際もう加藤さんで統一しますが水島さんは一時いっときでも早く加藤さんに本名を告げたいんですよその為に出来るだけ水島さんは身近な存在になるために努力してますからあなたも協力してあげたらどうですか」

「どうすればいいんです」

「自分はこう言う経歴なんだと告白しているのですから本郷さんも加藤さんとの過去を伝えておいたらあなたに対する見方も協力の仕方も変わりますから」

「でも初対面の人に突然会って話すのは無理ですし、そう云う雰囲気になれる自信も有りませんから会ってからにしましよう」

「次はいつになるか解りませんから、ではこうしましょう」

 山路はスマホを彼女に渡した。

「なんですのでこれ」

「それに手短に加藤さんとの事を書いて下さい、それを私から事前に聴いたものですと前書きして送りますので」

 彼女は山路のスマホを握りしめたまま休憩所から高速を行き交う車を暫し眺めていた。

「加藤さんの記憶を春の冷たい三陸の海にいつまで泊めておくのです」

「それと加藤との思い出を綴ることにどう云う関係があるんです」

「本郷さん !」

「ハイ」

「あなたは加藤さんに会いたいんですか会いたくないんですか」

「辛いんです」

「それでは答えになってません。それでは今まで日延べしている理由を疑われますよ」

「山路さん、どうすればいいんです」

「敦賀で水島さんに精一杯の誠意を見せるしか有りません。それは加藤さんとの熱烈な過去を語るしかないでしよう」

「……」

「本郷さん、加藤さんを愛していたのでしょう、そしてその愛に応えるためにも過去を捨てても想い出まで捨てきれないでいたことをハッキリ伝えるべきです。あの日まではかけがえのない人だったことを。そして今はその存在を知るまで五年と九ヶ月の時にいたずらに翻弄されただけですから。水島さんも同じ想いを何十年も秘めていても今は笑って仁和子さんに会える日が来るようです」

「仁和子さんに会いに行かれるのですか。今の奥さんもそれを笑って見送られるのですか」

「時の流れは惨いこともしますが粋な計らいもしてくれるようです。ですから何年か先に笑い会えるようにここで誠意を見せれば今はとにかく遠い将来に禍根を残さないようにすべきです、今はとにかくあの震災がなければ続いていたと思われるそれまでの想い出を水島さんに伝えれば解ってくれますし佐藤さんとの将来も祝福してくれますよ」

 彼女は握りしめたスマホに想いの丈を打ち始めた。

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