第15話 赤山禅院
翌日に出社すると松井が元気に呼び掛けてくる
「いつも出庫する時間なのにまだ居るのか、それにしてもいやに張り切っているなどうしたんや」
こないだまでしょぼくれていの一番に出庫して、日頃の彼としてはスッカリ陽が落ちてから帰っていた。最近は目一杯働いていた奴がまだ油を売っていた。
「内のやつが元気になってまた店へ働きだしてやっとマイペースに戻れたんや」
「それは結構な事だがそれと今のお前とどう関係するんだ」
「大ありでしょうこれで血眼になって客を探さずドライブ気分で仕事が出来るんですよ」
しょうがねぇ奴だなあこいつは死ななけゃあ治らねぇのか。
「だからこう言う時こそ汗水流して一緒に頑張ってこそ働き甲斐があると云うもんだ」
哀しいかなこの男には馬の耳に念仏、ネコに小判か、しかしこの男に関わって居られない今日も本郷から予約が入っていた。
山路は予約の時間に本郷の会社の前へやって来た。ハザードランプを点滅させてから「やあお待たせいたしました」と五分以内に会社から出て来たのは本郷でなく佐藤だった。
佐藤は昨日の来訪の礼を告げてから行き先を指定した。
山路が車を走らすと実はと喋り始めた。
今日の回るところは本郷の予定だったが、彼女は気が重いらしく彼が来た。彼女の気が重い原因は明日の敦賀行きらしい。それを佐藤は申し訳なさそうに喋り出した。
「実は一緒に行けなくなって……」
「休めなくなったのですか」
「彼女は休めるのですが私の都合が付かなくなって……。じゃあ一人で行けばいいじゃないかと思われるのですが、知らない土地で知らない男に、しかも二人と会うのに彼女は最初は私と行くつもりで承諾したが、どうしてもその日は抜けられない仕事がわたしには出来て仕舞ったのです。そこで山路さんのタクシーを使えないかと思いまして」
そう云う事情かと安堵した。
「それはいいですが高く付きますよ」
「幾らぐらいです」
「片道で二万は掛かりますJRなら千五百円ぐらいですから十倍以上、往復で四万超えますし時間も新快速なら一時間半ぐらいですが高速でももう少しは掛かるでしょうね」
今回は会社のタクシーチケットは使えそうもないのに金額に佐藤は驚いていなかった。
「判りましたそれで頼めますか」
「いいも悪いもありませんよ、日帰りで二日分の水揚げですからありがたいです」
しかし佐藤の顔からは安堵の表情がうかがえなかった。それが気になった。
「何か問題でもありますか」
佐藤が躊躇っていたのは昨日に初めて会った美咲の印象だった。
「わたしは本郷と山路さんが一緒に行かれる事にはよろしいんですが河村美咲さんが昨日の様子からどう思われるか気になりまして……」
なるほどそう云う事かと合点した。
「ご心配無く、仕事だと割り切らせます」
「彼女に相談しないで一方的に決めて大丈夫ですか……」
美咲の初対面が余程に効いたのか佐藤は尚も不安げに声を落としていた。
「じゃあこうしましょう。佐藤さんが商談で先方さんと取引なさっている間に美咲と連絡を取って確約を取り付けてから引き受けるか決めます」
佐藤はそれでも気になるのかまだ心配らしい。
「余り強引に話してせっかく戻り掛けた仲を壊すようなら本郷一人で行かせますので、元々は彼女の一身上の出来事のために先方の船長と水島さんが都合つけてくれたのですから納得するでしょう」
山路には本郷美希さんがそんな気弱な人には見えそうもなかった。なのに佐藤がこれほど心配するのには彼なりの愛情のようだった。そしてこれがこの問題の山場と佐藤が見てるような気がした。
目的地は山沿いの田畑を宅地化したのか、曲がりくねった狭い道が続いていた。その為に家の前には止められず車は北白川の修学院離宮の近くに有るコインパーキングに駐めた。得意先の社長の自宅はその近くだった。
佐藤が車を離れると直ぐに美咲に電話した。だが出られないから三十分後に掛け直して欲しいとメールを寄越した。十分ほどで戻って来た佐藤にその旨を連絡した。
「じゃあそこの赤山禅院に参拝しましょう」
千百年前に創建された京都の鬼門を守護する方避けの寺院として信仰されてる。
二人は山門を抜けて社殿へと続く参道を歩いた。
「ここはこれから物事を始める人には災いが降りかからぬようにお願いをする神様なんですから丁度いいでしょう」
「佐藤さんは詳しいんですね」
「いや〜、和歌山に居た頃は神社仏閣には全く関心がなかったのですよ、京都へ来てからですよ勉強しましてね」
そこで美咲から連絡が入った。山路は佐藤との経過を報告した。
「別にかまわないけど用が済めば帰りは電車にするかも知れないわね」
「お前と違ってそんなケチな事はしないよ」
これを聞いて佐藤は苦笑いをしていた。
「あらケチで悪かったわね家庭をやりくりするってそう云う事よ」
「今から夢のない話をしてくれるな」
「あなたの稼ぎが悪いからそうなるのよ」
だが電話の向こうからは笑みが零れていた。
山路は通話の終わったスマホに向かってば〜かと言っていた。
佐藤はそれを穏やかな視線で捉えていた。
「大丈夫でした」
佐藤はそれだけ聞いて他には何も尋ねずにまた参道を登りだした。
「本郷から聞いたのですが有島武郎のファンだそうですね。軽井沢での心中事件では本郷は世間から非難を浴びた女性の方を強く擁護したようですね、人は名声で判断されたら堪らないって言ってました」
ーー彼女に取っては第三者からの言われ無き誤解を避ける為に風評、噂を気にしますから慎重に事を運んでいきたい。このたびの事で関わった多くの善意を無にしたくはないので何とか現状で納得してもらいたい。この現状では加藤の方に集まる同情は致し方がないにしても、その反動で片手落ちにならないように彼女にも同情が有って然るべきなのだ。たとえ幸、不幸の差で決められては堪らないと佐藤は本郷の心の内を語った。
「それでも本郷さんは加藤さんと直接会う事を望んでいるんですね」
「それはたとえ過去の人でも、今も嫌われたくない。その一心で彼女は苦しんでいるんです。ここまで努力してくれた山路さんにしかそれは解ってもらえないと思うからこそ私に代わる人は山路さんしか居ない。だからあなたが来られないのなら山路さんに同行を頼んで欲しいと頼まれました」
それほど思い込まれればやり甲斐も出来る。
「そこまでして本郷さんは敦賀行きを望んでいるのですか」
「望むというより加藤さんに心を寄せる人々が居る、そう云う人々の中に入らなければ私との本当の幸せは得られないと確信したふしがあるんです。私以上に加藤さんが意識回復して欲しいとの思い入れが強い山路さんなら解ってもらえるからと、今回はこんな形で協力が得られればもう加藤さんから万全の理解が得られる自信になるいい機会です」
会って別れを告げるだけならこんな努力は必要ない。けれどあの人にはそこから発展する未来を約束するものが無ければ会う意味が無いからこそ本郷の苦悩がそこに潜んでいた。
石段を登り詰めると正面に社殿が見えた。屋根の上には鬼門除けの猿が鎮座してこの都を守護していた。二人は社殿に向かって手を合わせて参拝した。
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