第5話 過去を見捨てる女2

 何か胸のつかえが残ったまま山路は昼食を終えて、午後から残りの得意先廻りに車を走らせた。だがハンドルを持つ山路には本郷美希のさっきの落胆振りが気になって仕方がなかったが突っ込めない。

「入社五年ならベテランなのにまだ大事なお得意さんを任されないんですか」

「まだ二年です。暫く郷里にいました。それから東京にも出ましたけれどこの街が一番落ち着けるから、今の会社も居心地がいいのでここに居座ろうとしてるんですけど……。でもさっきの山路さんのひと言で昔を想い出してしまいました」

 そう言いながら彼女は何かに耽るように流れる景色に身を任せていた。 運転する山路には本郷美希のそんな仕草はみえないから。

「昔と云いますとあの震災ですか」

と言い掛けて見上げたルームミラーには彼女の物思いに耽る顔が写っていた。それを観て震災の事を聴きたくても、どうも彼女には辛い想い出に繋がるようでそれ以上は聞き出せなかった。代わりに仕事の話になると彼女とは割とスムーズに入って来た。

 本郷美希の商事会社では年明けの挨拶回り以外にも月内にけっこう外回りの仕事があった。得意先回りでは最近は駐禁に引っ掛かるので二人ひと組で回らせているが、案件が増えるととても回れないのでとくに多い日は一人でタクシーの貸切で回らせていた。

「最近はあたしがその仕事を任されて、月に数回、無い時もあるからいつも出掛けに流しのタクシーを使っていました」

 ーー決まった人を配車してくれればと思っているがタクシー会社では担当者を置かない。だから毎回違う人になるから予約を入れてなかった。月に数回だから無理押しが出来なくてどうでしょうと山路さんを直接指名して専属で来ていただければ有難いのですが。

「それで今回は山路さんを試しに依頼しました」

「それは有難いです、今日は朝一番でしたがその仕事は何日前に判りますか」

「数日前には判ります。先日お目にかかって今日ですからどうかなあと思って思い切って連絡しましたが来ていただいてホッとしています」

「思い切る必要はありません。さっきも話したように年末年始以外は走って見ないと分からない仕事ですから有難いです。是非おねがいします」

 これで一定の水揚げ量が確保されれば常習化しかけた超過勤務から抜け出せそうだった。

 

午後から再開した挨拶回りは順調に行った。震災で同じ境遇の人の話を聞いて身近に感じたらしい。それもあってか、彼女からどれぐらいの仕事を廻してもらえるかは判らないが月に一、二回は有りそうだった。とにかく今は仕事上彼女をつなぎ止めておかないと、その為には出来るだけ気に入られなければならない。今彼女は何に関心があるのだろうか考えて見た。とりあえず話題を変えた。

「先ほどはこのお仕事はお客さんを乗せてなんぼって仰ってましたけど」

「そうです、でもどこに乗ってくれそうなお客さんが居るか解りませんから探すために走り回らなくてはならないんです」

「当てずっぽで走るんですか」

「まあある程度は居そうな場所を特定しても実際は走って見ないと解りませんから外れればがっかりしますねそれの連続ですから。今日みたいに本郷さんお一人を乗せて時間まで走ればいいんですから今日は楽ですね」

 彼女はまた元気を取り戻したようだから震災の話は暫く禁句にした。

「そうね何も考えなくて良いのが一番落ち着けるのかしら。で山路さんは独身なんですね」

「まあね一応は」

「一応はってことは別れたけれどまだ縁は残っているのですか」

「解らないけれどまだ相手は一人らしいからその意味では縁は残っているのかなあ」

 残っているのは未練だった。

「もっと聴いて良いかしら ?」

「どうぞ」

「いつ別れたのです」

「去年です」

「連絡はないんですか」

「有りません」

「山路さんの方からは連絡しないのですか待ってるかも知れないのに」

「どうでしょうかねぇそんな奇跡が起こるでしょうか」

「奇跡ですか、なら一度、長谷寺の十一面観音菩薩を拝まれましたら、あの観音さまは奇跡を叶えてくれるそうですよ」

 長谷寺、この寺の名が彼女の口から出た時に山路は一瞬ハンドルを持つ手に力が入った。

 越前大野に居る名無しのごんべいの岡田さんは確か遭難した十一日に唯一身に付けていたのが長谷寺の十一面観音菩薩だった。がそれは旅館の女将さんが似ていると言っただけで岡田さんの手掛かりを知る唯一のお守りの仏像がその十一面観音菩薩かどうか確証がなかった。

「長谷寺 !。あの奈良の長谷寺ですか !」

「そうですけど、急に声を上げて、長谷寺がどうかなさいました ?」

「いえ、どうも、その、お寺ですけど本郷さんは行ったことがあるんですが」

 なんの前触れもなく急に核心に迫れる展開に山路は慌てた。

「ええ、有りますけどそれがどうかしましたか」

「あの〜」

「はい、なんでしよう」

「実に言いにくいのですが、いつ、誰といかれました」

「まるで刑事さんみたいな言い方ね。でもどうしてそんな事お聞きになるのですが」

 これはどうも言いたくないのか彼女は厳しい顔になった。

「あの〜」仕方がない話題を変えよう。

「またですか」

「わたしの独身を聴いたのですから本郷さんはどうなんですか」

「それもそうね片手落ちでした。あなたと同じ境遇です」

「別れたのですか」

「似たようなものです」

「本郷さんのお名前ですけれどそれは嫁ぎ先のお名前、それとも実家ですか」

「またまた可怪おかしな事を聞く人ですけれど、まあ山路さんは最初から憎めない人に見えたから言いますけど本郷は実家で旧姓に戻しました。前は加藤です。これで満足いただいたかしら」

「十分です」

 場所が特定出来る手掛かりになる名前ならと期待したが加藤では全国的にありふれた苗字だった。

 あくまでも推測だから確証が持てるまでこれ以上は話しが進められなかった。

 得意先回りを終えて後は会社に戻るだけになったから更に気楽に和気藹々わきあいあいとなった。

「山路さんのお給料って乗っていただいたお客さん次第でそんなに変動するんですか」

 彼女も話題を変えて来た。

「ええだから本郷さんの貸切契約は有難いんです。この調子でいくと月締めの墓参りは行かなくてよさそうですから」

「墓参り ?なんですの、それは」

 年が明けて新春には違いないが春のお彼岸さんにはほど遠いのにと云う顔をした。

「月締めに規定の水揚げ量がわずかに足らない場合は自腹を切って足らない分を入れるんです。その時に料金メーターを入れて走ると水揚げが加算されます。つまりは空でお客さんを乗せないで無人で料金メーターを入れて走りますから業者間では『墓参りに行ってくるわ』となるんです」

 規定の金額に一円でも足らないともらえる金額が大きく下がる。水揚げ40万で五割、35万だと四割しかもらえない。わずかに切った場合は自腹で足すとそれ分以上の金額がもらえる。その採算ラインで墓参りをするかしないかを決める。

「面白い話ですのね。それぞれの業界にはその身内でなければ解らない業界言葉が有るそうですけれど葬儀に関係の無い業者がお墓参りなんて想像も付きませんでした」

 乗る側は何気なく挙手して乗るが、乗せる側は何時間も走ってやっと巡り逢ったお客さんだ。と云う事は毎日市内を二百キロ循環してもお客さんを拾えるかどうかは極めて確率が低くまったくの運次第だった。どれほど人の多い場所を走っていても歩道に立っているお客が挙手するタイミングでその前後を走る空車に乗ってしまうからだ。挙手が早くても遅くても行けないドンピシャリで無ければならないからだ。人気の少ない場所でも行き過ぎてから挙手されても交通量の関係でかなり手前からウィンカーを出して後続車に喚起を促してから停車しなければ追突される危険があった。だからバックも出来ないからこの落胆振りは客の少ないときは特に応えた。

 こう説明すると彼女も水揚げが運に左右されると納得してくれた。

 彼女には震災で失ったものへの熱望と拒絶感が同時に存在しているようだった。だから午後からはこの様にタクシードライバーの裏事情の話題に終始した。

山路は貸切が終わればいつもより早く夕方にはそのまま入庫した。

 さっそく松本係長から「偉い今日は早いやないかこれからが夕暮れのかき入れ時やのにドヤなあ、余裕のよっちゃんやなあ」と皮肉っぽく言われたが。

「ええもう十分稼ぎましたから明日の分も余分に稼いでますので」

 と言ってから山路の入金額を見た係長は感心していた。


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