シェークスピアの野次

中川 弘

第1話 ゲッティグ ベター


 生徒から、このようなことを言われてしまった教師は、はて、どのような感情を抱くものなのでしょうか。


 学校ってところは、たいして楽しくもないことを、教えているところだ。

 第一、先公たちは、人を抑えつけて、ルールというもので、俺たちをがんじがらめにしているではないか、って。


 マッカートニーの「ゲッティグ ベター」という曲を聴いていたころ、私は、まだ怒れる青年の一人でした。

 ですから、この曲を聴き、その歌詞を知った時、マッカートニーはおいらの味方なんだと諸手を挙げて嬉しく思ったものでした。

 

 そんな若き日のことなどすっかり忘れて、心身ともに、丸みを帯びた私は、教師として身を立てて、しばらくしての頃に、一人の青年に出会いました。


 野球の技術は、それは秀でた青年でした。

 しかし、協調性がまったくと言っていいほどなかったのです。

 だから、当然、野球部内で浮き上がり、ちょっとした悶着を起こしてしまい、退寮退部となったのです。


 勉強はよくできました。

 しかし、なかなかの反骨精神の持ち主でもありました。


 授業は聞かないで、寝ている。しかし、試験をやれば、そこそこ点数を取る。

 教師には反抗する。同級生とはトラブルが続く。

 いい加減に、担任も匙を投げてしまったのです。


 その青年が、取り返しのつかない問題を起こしてしまいます。

 一人の気の弱い教師に悪態をついて、手を上げてしまったのです。


 上司が下した処分は、退学という厳しいものでした。


 その言い渡しの際に、親はついにきませんでした。

 先生方には大変にご迷惑をかけた、学校の処分に対して、一切のクレームをつけることはいたしません。最後の説諭をしていただき、学校から追い出してやってくださいと言うのです。


 私は、その時、そういう生徒を扱う部署にいました。

 先生だって、悪いんだと、退学処分を受けた後、持って帰る私物を前にして、その青年は私に言いました。


 その時、私の脳裏に、あの曲が流れてきたのです。

 

 I used to get mad at my school

   The teachers who taught me weren't cool

   You're holding me down turning me round 

   Filling me up with your rules


 そして、私は、言いました。


 先生は悪くはない、だから、先生になっているんだ、正しいことを正しいと言えるから先生なのだ、それを君はわかっていない、って。


 実際のことを言えば、この青年に同情を寄せることも多々あったのです。


 でも、こう言う生徒には、どっちつかずの、煮え切らない、つまり、どうでもいい、第三者的発言をすることが一番良くないのです。


 その青年とトラブルのあった教師は、その典型のような人物でした。


 もっとも、大学院に籍を置き、講師として採用されている人間ですから、あまり、生徒の感情には関心を示しません。

 それより、他のことに頭が行っている先生であったからです。


 しかし、だからと言って、退学を命ぜられた生徒に安易に情をかけるわけにはいきません。


 学校だから、それで済んだのです。

 社会であれば、警察沙汰になっても仕方のないことです。


 現に、その大学院に籍を置く非常勤講師は、教師であるという職分も忘れて、その生徒と親を訴えると、そう言う時に限って強気になるのです。

 

 だから、この青年が社会に出て、間違いを犯すことのないように、私は、最後の説諭をするにあたり、そう言ったのです。


 先生というのは、間違いはしないから先生であり、生徒をまっすぐに導くから先生であり、生徒というのは、だから、それに従わなくてはならない、その第一の理由は、君たちは、まだ修行中の身だからだと、そんな方便を使って、その生徒を説諭したのです。


 その青年は、そうまで言われると、議論の余地はないと思ったでしょう、自分の置かれた状況は変わらないことを察知したのか、それとも、これだけで済んだと安堵したのか、それはわかりません。


 私は校門まで、彼を送って行きました。


 授業中の校内は、殊の外、静かです。グランンドでは体育の授業がなされ、かすかに、合唱のあでやかな歌声が聞こえてきます。

 利根川からの川風が心地よかったのを覚えています。

 

 青年は、校門で私に頭を下げました。そして、その先にある野球部の寮の建物をちらっと見たのです。


 その後、その青年がどうなったのかを私は知ることはありませんでした。

 噂の一つも聞こえてこなかったのです。


 学校にいれば、いろいろな人間模様を伺うことになります。

 刑事が来て、誰々の高校時代の様子を聞かせて欲しいと来たことがありました。これも退学をした生徒ですが、重大なる犯罪をしでかしたということで、教務に保管されている資料を出したことがあります。

 

 公の機関の調査ばかりではなく、誰それが何をしているなど、学校には吹き溜まりのように、そのような噂が入ってくるものです。


 結婚したとか、会社をクビになったとか、バイク屋をやって店を大きくしたとか、あれだかワルだった奴が、父親の跡を継いで職人として真面目になったとか、そんな話が押し寄せてくるのです。


 でも、あの青年のことは一切合切伝わってこなかったのです。

 

 だから、きっと、遠くの街に行って、持ち前の頭の良さを生かして、頑張っているに違いないってそう思っているのです。


 マッカートニーが、「ゲッティグ ベター」の冒頭のあの歌詞を歌っている時、横から声を出して、それに呼応するレノンの言葉があります。


 No I can't complain

 

   文句を言っているわけじゃないんだって、レノンは申し訳なさそうに声を出すです。


 レノンだって、リバプールの悪童の最たるものでしたから、きっと、そのやるせない裏声は、そうじゃないんだよ、わかってくれよって言っているに違いないと思うのです。


 人というのは、世の中というものは、いつだって、問題を孕み、トラブルの中にあっても、いい方に行こうとしているものです。

 誰だって、悪い方へと行くことなんて好まないからです。


 そぼ降る雨の音を聞きながら、あの「ゲッティグ ベター」のギターの弦を小刻みに切る音が聞こえてきたのです。

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