285 再び、慶央へ……・その15



「おまえが安陽に旅立つ前に、手渡したいものがある。

 今夜、おまえの部屋で二人きりで会えるか?」


 魁堂鉄にそう言われた時、萬姜は一瞬ためらった。

 長年の顔見知りでもあり、その強面の見かけによらず心の奥底に優しさを秘めた堂鉄ではあるが、それでも彼は男だ。

 思わず乱れてもいない着物の襟元えりもとを手で掻き合わせる。


 その様子を見た堂鉄が急いで言い足した。


「ま、ま、萬姜、べ、べ、べつに、おまえの部屋で長居したいわけではない。

 あるものを手渡したいだけだ」


 武骨な堂鉄をそこまで動揺させた自分の無意識の動作に気づいて、今度は萬姜がうろたえる。衿元にやっていた手を慌てて下す。


「こ、こ、これに深い意味はありません。

 わ、わ、わたしの癖です」


 そこでやっと二人は顔を見合わせて、お互いに三十路を越えたいい歳の大人であることを思い出した。同時に顔を赤らめて、そして笑い合う。


 体の関係に銀子の見返りを求める女しか知らなかった堂鉄にとって、萬姜は若くはないが初めて知る新鮮で愛らしい女だ。また英卓に〈うるさい雌鶏〉と常に揶揄やゆされながらも人の心配ばかりしてきた萬姜にとって、自分を心配してくれる大きな男の存在は嬉しかった。


 しかし、二人とも命をかけて主人に仕える身であれば、その想いは秘めるしかない。そして、明日からは遠く離れる。


「今夜、荘家の皆さまは、最後の夕食を水入らずでお召し上がりになります。

 お世話は千夏さまの侍女三人に任せれば、しばらくの間、わたしがいなくても気にするものもいないでしょう。

 堂鉄さま、お待ちしております」


「わかった」


 男の返事はあっけないほど短かった。

 だが、去っていく大きな背中が嬉しそうに左右に揺れていると見えたのは、萬姜の思い過ごしだろうか。




****** 


「ほんとうに、何もない部屋だな」


 その巨躯を縮こまらせて萬姜の部屋の真ん中に座った魁堂鉄は、部屋を見回して開口一番に行った。


「はい、明日、出立ですので」


「そうだったな」


 本当は、安陽での日々や萬姜が向かう懐かしい慶央のことなど、長々語り合いところだがそうはいかない。


「さっそくだが、昼間に言ったおまえに渡したいものとはこれだ」


 布で包んだ四角い箱のようなものを堂鉄は携えていたが、それを彼はひょいと持ち上げて萬姜の前に置いた。


 その箱の大きさと形に、萬姜は見覚えがあった。

 しかし遠目に見たことはあるが、実際に自分の目の前に置かれるのは初めてだ。

 そして堂鉄はまるで重さなどないように軽々と持ち上げたが、それが女の手には余るほどずっしりと重いものだということも知っている。


「堂鉄さま、もしかしてこれは?」


 布包みの結び目に手をかけた萬姜を、慌てて堂鉄が止めた。


「いや、いまここで開けて確かめなくともよい」

「いえ、そうはまいりません!」


 布包みの中から出て来たのは、やはり萬姜の想像通りびょうを打って物々しく飾りたてられた木の箱だ。鍵が掛けられる仕掛けもついているが、それは開いている。

 それなりの金額の銀子を収める銀子箱だ。


「このようなものを、なぜに、わたしに受け取れと?

 そのようなことが出来るわけがありません」




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