234 沈明宥、死す・その3



「亜月などという妖婆は、自ら火の中に飛び込んでくれて、手間が省けたようなものだ。あのような薄気味悪いものを斬ると、刀が錆びつく。

 しかし、竹林屋敷に子どもがいたとは……」


 そう言いながら、承宇項は腕組みを解いた。


 厳しい監視の目をくぐって正妃殿から、亜月と第六皇子が消えた。


 承家が北方の守りに追いやられている間、袁家が六十年間、宮中を思いのままに支配してきたのだ。掌握しきれていない後宮と外を結ぶ仕掛けがあったのもいたしかたがない。


 しかし、亜月と皇子の行方を表立てて騒ぐのは、いまは得策ではないだろう。


 二人の所在が不明なことを朝議の席で袁開元に責められたら、宮中と後宮の警護を与っている禁軍の将としてはめんどうなことになる。

 開元も兵を使って荘家を襲い白麗を殺そうとしたことは知られたくないであろうから、こちらからわざわざ墓穴を掘りに行くこともない。


 いまの正妃殿の寂れようは、さながら幽霊屋敷だ。

 使用人たちの数も少なくなった。

 亜月と皇子は正妃の看病のために正妃殿の奥深くに引きこもっていると隠し通すことは出来る。


 あとしばらく、いや、ほんのしばらく。

 袁開元の首を刎ねるまで。


「あの子どもは、亜月の隠し子……。

 いや、子を生むにしては、あの妖婆、少しばかり歳をとり過ぎかと。

 となると、やはりあの侍女の子でしょうか。

 子どもには罪のないことゆえに助けたかったが、火の回りがあまりにも早く……」


「もうよい、もうよい」


 見え透いた嘘に嘘を重ねる英卓を、苦笑いを浮かべた開元は顔の前で手を振って制した。さも慌てように恐縮のふりを見せて片手で拱手した若い男は、では、この話は終わったと?――と、目で訊いてくる。


「もうよい、もうよい」

 もう一度、繰り返して宇項は言い立ち上がった。


「開元に襲われた屋敷の片づけで、おまえも忙しいことだろう。

 これ以上、引き止める理由もない。

 では、そこまで見送ろう」


「ありがたきお言葉に存じます」


 英卓の横に並んで歩き始めた宇項がさりげなく言う。

「……、おお、そうだった、おまえに頼みがあったのだ」


 拱手の礼を解いた英卓も、報告が無事に終わった安堵に明るい声で答える。

「宇将軍の頼みとあれば、なんなりとお申し付けください」


「英卓、帰る途中で我が屋敷により、千夏に会っていって欲しい。

 もうすでにあれの元にも、荘家襲撃の噂は届いているはずだ。


 賢いあいつのことだ。

 おれとおまえがお嬢ちゃんを危うい目に合わせたと悟っているに違いない。

 怒りで、いま、あいつの頭には角が生えているぞ。

 まずは、おまえから上手くなだめて欲しい」


 英卓の足が止まった。

 ここに来てより立て板に水を流すがごとく喋っていた英卓が、初めて動揺の気配を見せて言い淀む。


「角の生えた千夏さまを、このおれになだめよと……?」


「そうだ。

 もしかしたら、あいつの機嫌を取るのは、袁開元の兵士たちや亜月を相手にするよりも、至難の業であるかもだな」


 そしてあとを静かについてくる大男にちらりと視線を走らせ、言葉を続ける。


「千夏には、堂鉄の剣の腕も役には立つまい。

 それ相応の覚悟はしておいたほうがよいぞ」


 はぁ……と、英卓が肩を落とし大きなため息をつく。

 

 その様子を見て、宇項はからからと笑った。

 笑っても笑っても、なぜか、彼の腹の底からは新しい笑いが突き上げてきた。

 袁開元を討つ日が目の前に迫っている。







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