235 沈明宥、死す・その4



 薬種問屋〈健草店〉の奥にある隠居部屋で、男たちの声が騒がしい。


「爺さま、自分の歳を考えろ。

 七十歳もとうに過ぎて、晒された人の生首が見たいなどと、いい加減にしてくれ」


 甲高く響くのは、隠居部屋の主である沈明宥の孫である沈如賢だ。

 

 彼は、薬種問屋〈健草店〉の商いで忙しい父親より、幼い時から祖父のお守りを任された。長じてからは放浪癖のある祖父の供として、青陵国内を珍しい薬草を求めて旅をする。


 そして三年前の夏に、慶央に近い山中で賊に襲われたところを、偶然に通りかかった荘英卓たちに助けられた。

 その時に彼は重傷を負ったが、荘家の屋敷で萬姜の娘の梨佳に手厚く看病された。

 その後、安陽に戻って来てその梨佳と夫婦になり、この春に生まれた桃秀という娘もいる。


 頑固な明宥に遠慮なくずけずけとものが言えるのは、沈家ではこの如賢くらいだろう。しかし明宥も老いているとはいえ、口喧嘩で孫になど負けてはいない。


「いいではないか。

 安陽に住むものは、袁開元の圧政に六十年も苦しんだのだ。

 冥途の土産に、晒されたあれの首を見るくらいは。


 本当は、あれの首が胴より離れる瞬間も見たかったのだが。

 しかしそれは、この老いぼれた心の臓に悪いというおまえたちの諫めを聞き入れて、諦めたのだぞ。

 板切れの上に並べられた首くらい見てもよかろう」


 若い息子の如賢に任せていては埒が明かぬと、如賢の父親で<健草店>のいまの主人でもある沈明賢も口を挟んだ。


「ご隠居さま、袁開元の首も晒されて、はや十日になります。

 あれはもう人の顔という代物ではありません。

 腐った大きな芋といったほうが……。

 どこが目やら口やら、遠目ではしかとはわかりません」


「おお、おまえはもう見たのか?」


 どうやっても孫を言い負かすことは出来ないと思いかけていた明宥だったが、その言葉に目を輝かせて食いついてきた。

 息子の如賢にも睨まれて、明賢は自分の言葉が藪蛇になったことを悟った。


「見たというより、毎日、商いで通る道であれば、否応なく目に入ります」


「人の顔ではないというのなら、なおさらのこと。

 腐った芋を見るくらいよいではないか」


 嘆息を一つついて、諦明賢は諦め声で言う。


「こうなってはしかたがありません。

 ご隠居さま、馬車の窓からご覧になると約束してくださるのであれば、お許しいたしましょう。

 ご隠居さまの心の臓は、動いているのが不思議と、お医者さまも首を傾げるほどに弱っておられるのです。

 決して無理はなさらないでください」


「自分の体のことくらい自分が一番よくわかっておるわ。

 そうなれば、すぐに出かけるぞ。

 如賢、着替えじゃ、着替えを手伝え」


 短気な老人の言葉に腰を浮かした如賢に、父が言った。


「如賢、ご隠居さまのお供を頼む。

 決して、ご隠居さまを馬車から降ろしてはならんぞ。

 年の瀬も間近。

 最近の安陽はめっきり冷え込んできている」


 そして明宥に向き直ると、老いた父親を気遣う息子の顔を安陽一の薬種問屋〈健草店〉を切り盛りする店主へと変えて、言葉を続けた。


「では、ご隠居さま、くれぐれもお気をつけくださいませ。

 わたしは店のほうに戻らねばなりません」





******


 同じころの、沈家の開け放たれた座敷。

 沈家の女たちが一堂に集まっている。


 そして、廊下には手の空いた使用人の女たちがずらりと並び、その首を鶴のように伸ばして座敷の中を窺っていた。戸が開け放たれているので、部屋には上がれない下働きの女たちまでもが、なんだかんだと理由をつけて庭をうろうろしている。


 男たちが言い合う奥の隠居部屋と違って、こちらは女たちの華やかな笑い声に満ちていた。







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