224 竹林屋敷、未明の空を焦がす・その3
亜月は振り返ることなく、二度、手を打った。
背後より、呼応する秘かな声がする。
「亜月さま、何用にございましょうか?」
暗闇より答えた女は、亜月が竹林屋敷に滞在中、常に傍らにはべる侍女だ。
彼女も白い旅装束を身に纏っていた。
もとは正妃殿にいた宮女だったが、天子さまを誘惑したというあらぬ疑いを正妃にかけられて、杖刑に処せられるところを亜月が策を弄して助け、竹林屋敷にかくまった。
外の世界では、親兄弟にまでにすでに死んだと思われている。
「一度失くした命にございます。
惜しいとは思いません。
最後まで亜月さまの傍で仕えさせてくださいませ」
昨日、過分な金子にも外の世界での自由にも目もくれず、彼女はそう言った。
いまも彼女の目には、竹林の不自然な葉のざわめきと、屋敷を取り囲む松明の灯りが見えている。
だが、動じる気配もなく、その不審を女主人に訊ねようともしなかった。
「どうやら、時は来たようだね。
峰さんをここへ連れてきなさい」
「はい、亜月さま。さように……」
きゃしゃな女の黒い影が音もなく動き、屋敷の奥へと消えていった。
******
暗闇から、大きな馬が現れた。
縁に立つ亜月の顔とおなじ高さに、いきり立つ馬の顔があった。
体の境もわからぬほどに闇に溶け込んだ黒い馬だ。
ここまでずっと駆け通しだったのだろう。
立ち上る汗と荒い鼻息が、夜目にも白く煙っていた。
――宮中にいて、献上品のよい馬はたくさん見てきた。
しかし、この馬の美しさは格別だ――
おのれの危うい立場を忘れて亜月がそう思った時、馬から松明をかかげた小柄な人影がするりと飛び降りた。
手にした松明を突き出して、その子どもは叫んだ。
「英卓さま、この女が黒ずくめの婆さんです……」
しかし、甲高くよく通るその声がだんだんと消え入りそうになったのは、女の姿が腰の曲がった老婆ではなかったからだ。
亜月は苦笑した。
「小僧、わたしがその婆さんで間違いない。
もう演じる必要もなくなったので、若返ったのだ。
それにしても、よくここを突き止めたな。
時が時でなかったら、褒めてやりたいところだが……」
突然、馬が
とっさに、女は一歩後ろへと下がる。
「黒輝、静まれ!」
馬上の男が引き絞った手綱を器用に操り、馬をなだめる。
諦めておとなしくなった馬から飛び降りたのは、片腕の男だ。
「驚かせてすまなかったな。
この黒輝は、馬の分際で麗に惚れていてな。
麗を危険な目に合わせたおまえが許せないようだ」
「そうか、あのものたちは、白い髪の女を危険な目に合うほどには追い詰めたわけだな。
命を奪えなかったのは無念だが……」
再び、馬が暴れ出す。
片手の男が手を上げると、後ろから男が二人出てきて、両側から
「亜月、言葉に気をつけろ。
黒輝は賢い、人の言葉を解する。
どうせ死ぬにしても、馬に蹴られて死にたくはないだろう」
「おまえが荘英卓か。
田舎者だと、少々、侮り過ぎたようだ」
暗闇に、キリキリと弓を引き絞る音が響いた。
いつのまにか片手の男の両側には、弓を構えた若者とするりと刀を抜いた大男が立っている。
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