223 竹林屋敷、未明の空を焦がす・その2



 ――それにしても、いつになれば、火の手が上がるのか?――


 泥田に立つ白鷺のように微動だにせず、東の空を見つめていた亜月だが、初めてその体を動かした。

 縁の端まで行き、爪先立つ。


 そうやって、伸びあがってまでして眺めた東の空だった。

 しかし、鬱蒼と生い茂る竹林の向こうに、夜空を焦がす火の手はない。

 安陽を取り囲む東の山々の稜線がうすらぼんやりと白くなり、見える星の数も心持ち少なくなった。


 夜明けが近い。


 ――まさか? 襲撃に失敗したというのか?――


 男たちのまつりごとの世界とは隔離された後宮にいても、袁開元の尾羽打ち枯らした情けない低落ぶりは、漏れ伝わって来る。


 天子の怒りをかった日より、彼は病いを言い訳にして朝議の席に姿を現していない。

 そのために政のすべては、天子を担ぎ上げる承将軍とその一派に移りつつある。

 正妃宮の奥深い部屋で寝台に横たわる正妃の傍らにいても、それは後宮を吹き渡る明るい風の色として亜月の目にも見えた。


 だが、六十年に渡っての恐慌政治で蓄えた袁家の財力と兵力を、承将軍たちがまだ怖れているのも事実だ。

 穴に潜む手負いの熊のごとく、うかつに手を出せば、噛みつかれて引き込まれ喉を食いちぎられる。


 その開元が、髪の白い女の襲撃のためにと、訓練された兵士を気前よく貸してくれた。


 宇将軍と膠着状態の中で彼も、荘英卓に一泡吹かせて、溜まりに溜まっている鬱憤を晴らしたかったのだろう。そしてまたこの襲撃の成功を機に、ものごとがよい方向に動けばと、太った体に知恵の回らぬ開元の神頼みでもあったに違いない。


 日々に訓練を重ね、戦場でも多くの人を斬ってきた兵士が二十人もいれば、屋敷の一つを襲うのに十分だと開元も亜月も思った。


 荘家の若い主人は、承宇項が気に入って義兄弟の契りを交わした荘英卓という男だ。口入れ屋に毛の生えたようなことを生業としていて、命知らずな男どもを従えているとは聞いている。

 しかし所詮、慶央という青陵国の南の端の町から、ぽっと都に出て来た田舎者たちではないか。


「夜襲奇襲に長けた兵士たちだ。

 亜月、案じることはない。

 あっというまに、片付く」


 汗染みで汚れた着物をだらしなく着た開元は言った。

 そして潜めた声で言葉を続ける。


「わかっておるな。

 近々なうちに必ず、あの屋敷と使用人たちを始末するのだぞ。

 十年前に、あの屋敷でお父上に身に何が起きたか、誰にも知られてはならん」


 袁家滅亡を目の前にしたこの期に及んでも、彼の心配事はそこにあるのか。

 思わず浮かんだ苦笑いを隠すために、亜月は両腕をあげて顔を伏せ、揖礼の作法をとった。


「それにしても、髪の白いおなごは言葉を喋れないと聞くし、英卓という男は片腕がない上に、顔は醜く焼けただれているそうではないか。

 承宇項のやつも物好きなことよ」


「まことに、袁宰相さまのおっしゃる通りにございます」


 これが最後に聞く袁開元の声かと思いながら、ゆっくりと後ずさって亜月は部屋を出た。






 亜月の物思いを、突然の疾風が破った。


 ざわざわと葉擦れの音を立てて、竹林がまるで一つの黒い生き物のように動く。

 竹林を寝座ねぐらにしていた鳥たちが驚いて、かしましく鳴き交わしながら、一斉に未明の空へと飛び立った。


 それを合図に、竹林のあちこちにぽっぽっぽと松明が灯った。

 人の声と馬の蹄の音……。


 取り囲まれていると、亜月は知った。









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