217 龍、再び……・その10



 突然、英卓を静寂が包み込んだ。


 かたわらを駆け抜けた堂鉄の怒りの呻きが、徐平の放った矢の風を切る音が、聞こえなくなった。


 ゆっくりとこうべをめぐらす。


 絶えることなく聞こえていた刀の刃と刃が打ち合う音も、男たちの叫び声もまったく聞こえない。夜空の底をちろちろと炙っていた篝火の炎の揺らめきも、そこかしこで合図のために大きく振られていた松明の明りも、まるで据えられた常夜灯のように動いていない。


 英卓は空を見上げた。


 鮮烈に輝いていた星々がその瞬きを止めている。

 それらはまるで黒いとばりに空いた無数の穴のように見える。

 帷の裾が白々と薄くなっているのは、長かった夜も明けようとしているのか。


 聞こえるのは、ここまで駆けてきた自分の荒い息遣いのみ……。


 時が止まったのだと、英卓は気づいた。

 しかしながら、彼をここまで導いてきたかすかな輝きはまだ点々と続いている。

 そしてよくよく目を凝らすと、その奥に、柔らかな淡い金色の光が渦巻いている。


 その光の渦に向かって、英卓はゆっくりと歩き始めた。




 宙に浮いている堂鉄の傍らを過ぎる。


 まなじりも裂けよとばかりに見開いた堂鉄の目は、敵の男の一人を見据えていた。

 堂鉄に狙いを定められた男は、あと一呼吸もしないうちに、堂鉄に肩から胴にかけて深く斬り下げられて絶命するに違いない。


 固まって倒れている女三人の傍らを過ぎる。

 白麗と嬉児が、覆いかぶさった萬姜のふくよかな体の下敷きになっている。

 萬姜の重さに耐えて、白麗が苦しそうに顔をゆがめていた。


「相変わらずの雌鶏が……。

 助け出してやりたいが、いまはその時ではない。

 麗、苦しいだろうが、少しの間の我慢だ」


 英卓は呟いた。

 そして女たちの前には、腰を抜かしている允陶がいた。


「允陶め。

 おとなしく土蔵の中にでも、隠れておればよいものを」


 しかし允陶の後先考えぬ捨て身の行動が、ここまで辿り着く時間を稼いでくれたことを英卓は知っている。


 その允陶を斬り捨てようとして、刀を振り上げている男。

 この男の顔の寸前には、徐平の放った矢が、これもまた宙に浮かんだまま止まっていた。


 この矢は、あと一呼吸どころか一瞬きも終わらぬうちに、男の目に深々と突き刺さることだろう。

 そして堂鉄の返した刀で、男の胴は二つに分かれるに違いない。


「それにしても徐平のやつめ。

 いくら腕に自信があるといっても、おれの後ろから矢を射るのはやり過ぎだ。

 左耳が吹っ飛んだかと思ったぞ」


 最後に、萬姜を串刺しにしようと刀を構えている男の傍らを通り過ぎる。


「時が再び動き始めれば、おれはこの男をればよいのだな」





 ****** 


「おまえが龍か?」


 金色の光が渦巻いて、少しずつ形を成していく。

 その中から答える声がした。


「そうだ。しばし待て、姿を変えている。

 こちらのほうが、おまえたち人にはなじみやすいだろう」


「それはありがたい。

 慶央で初めて会った時の姿では、いつ取って食われるかと落ち着かないからな」


「ふん!」


 鼻先で笑う声が聞こえたと思ったと同時に、それは人の形となった。

 驚きで、英卓は思わずのけぞった。


「なんと、おまえはまだ子どもではないか!」








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