※ 第六章 ※
龍、再び……
201 亜月、峰貴文を捕らえる・その1
笛の音で天子を惑わし、正妃宮より足を遠のかせる原因となった白い髪の小娘。
その小娘に盗みの罪を着せて、杖刑で殺してしまおうという正妃のたくらみを知った時、亜月は止めようとしなかった。
「そのくらいのことで正妃の気が晴れるのであれば、それもよいこと」
そう、亜月は思った。
生みの母の気質を濃く受け継いでいた正妃は、この時すでに心の安定を失いかけていた。些細なことで手がつけられないほどに激高し、そのあとはどのような慰めの言葉も耳に届かぬほどにふさぎ込んで、生ける屍となる。
そのようなことを繰り返しながら、あと数年もすればその末路がどうなるか。
竹林屋敷で、十五年も彼女の母と暮らしていた亜月には手に取るようにわかる。
しかしあの時までは、すべてはあと少しの辛抱だった。
薬で顔を焼き手指の骨を折り老婆に姿を変えて後宮に上がり、懐妊中の正妃に仕えて十年。
常に正妃の傍らに寄り添い、生まれてきた第五皇子は実の子のように慈しんで育てた。第五皇子の気質は、甘やかされて大切に育てられたので年齢よりも無邪気なところはあるが、よい子だ。
その皇子の太子冊封は目の前だと、正妃の兄であり宰相でもある袁開元は言った。
そして第五皇子が太子となれば、すぐさま、彼を天子の地位に引き上げるとも。
幸いにも今上天子は気弱にして病弱だ。
突然に隠遁されようと亡くなられようと、不思議には思うものはいない。
すべて、縁開元と亜月の思惑通りにことは運んでいた。
それがあの小娘を杖刑台に乗せた途端に、禁軍の兵を率いた承宇項が現れ、その後、申し合わせていたかのように天子が現れた。
そして今まで袁家に逆らうことなどなかった天子が「おぞましい」と言い放ち、正妃に蟄居を命じたのだ。
天子の冷たい言葉は、生みの母に似て精神的に不安定だった正妃を、ついに狂わせた。
ことの次第は、後宮から政に携わる朝議の場にまで及んだ。
天子の怒りの前に、袁開元は床に這いつくばり許しを請うたのだ。
この瞬間、路傍の草も平伏するとまで言われた袁家六十年栄華は、音を立てて崩れ落ちた。
朝議の床に這いつくばった袁開元のために、その肩を持とうとした大臣は誰一人としていない。
斬首を怖れて逆らえなかったものたちは、開元に侮蔑の眼差しを向けた。
媚びへつらっていたものたちは、蜘蛛の子を散らすように安陽の都から逃げだした。
たった一日にして、すべてのものが袁家を見限った。
こうなってしまっては、第五皇子が太子となり天子となるのは不可能だと、誰の目にも明らかだ。
******
袁家の栄華が瓦解したあの日から空を見上げて、亜月は一日に何度も自問する。
まるで、いま見上げているどこまでも青く晴れ渡った夏空が、一瞬にして黒雲に覆われ嵐となったかのようではないか。
いやそうだろうか?
突然の嵐のように見えて、何事にもその予兆というものは必ずあるはず。
たとえば、はるか遠くの稜線に、豆粒ほどの不穏を孕んだ黒雲が湧いたとか。
緑陰から緑陰へと吹きわたる乾いた風の中に、かすかな湿り気があるとか。
空に舞う鷹の姿もないのに、突然、小鳥たちの賑やかなさえずりが途絶えたとか。
見落としていた予兆を知る必要があると、亜月は思った。
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