195 亜月の過去・その14



 言葉に詰まった開元を見上げて、亜月は落ち着き払った声で言った。


「開元さま、もう一つ、お願いがございます」


 その声が、開元には地の底から湧いてきたかのように聞こえた。

 突然、部屋に満ちていた血の臭いが濃くなったように思えた。

 振り返ると、並べられている父と母の躯が動いたような気がする。

 二人が揃ってむっくりと起き上がり、自分に向かって歩いてくのではないかという恐怖にとらわれた。


 膝がカクカクと震える。

 自分の脅しに屈しないものを前にして、生まれて初めて味わう恐怖だ。

 上顎に貼りついていた舌を、なんとか引きはがす。


「顔と手と声だけでは、足りないと言いたいのか?

 目を潰したいのか、それとも腰を曲げたいのか」


「いえ、そちらのほうはなんとか誤魔化せるかと存じます。

 開元さまにお願いいたしたいことは、わたくしのことではなく、奥さまのご遺骸とご葬儀とこの屋敷の行く末のことにございます」


「ああ、なんだ。そのようなことか」


「葬儀も供養もすることなく、奥さまのご遺骸をこの屋敷とともに焼き払っては、奥さまの御霊は決してご成仏できません。

 わたくしが簡素ながらもこの屋敷にて葬儀を執り行い、そして、宮中より時おり戻ってきては、奥さまの御霊をお慰めしたく思います。


 奥さまのご供養は、開元さまと祥陽さまと生まれてこられる太子さまのお幸せに必ずつながることと思います。

 どうか、そのようにお取り計らいくださいませ」


 最後のほうはもう開元の耳に入っていなかった。

 ここからはやく逃げ出して、住み慣れた屋敷に戻りたい。

 頭も心も疲れ果てている。

 これ以上、自分で考えるのは無理だ。


「おまえたちはどう思う?」

 床に頭を擦りつけたままの男たちに、開元は話を振った。


「お怖れながら、この亜月という女の申す通りかとぞんじます」


「もう少し気の利いたことが言えないのか、おまえは!」

 怒りに駆られて、再び蹴倒す。


 もう一人の男が震える声で答えた。


「この竹林屋敷は安陽の都の中心に近いところにあって、誰も気づかれぬように巧妙な仕掛けを施して建っております。

 しかし、火を放ち煙が立ち上れば、遠目にも気づかれるのは必定かと。

 当分は、その女の言うようになさるのがよいかと思われます」


「そうだ、そうだ、おれもそう言いたかったのだ。

 この屋敷を焼くのは止めた。

 亜月、おまえの好きに使え。

 あの死んだ女の供養でもなんでもするがいい」


 額を伝って目の中に流れこんでくる汗を手の甲で拭うと、開元はくるりと背中を見せた。





 ******


 屋敷に戻った開元は父の葬儀を盛大に執り行い、二十歳を少し過ぎた若さで父の後を継いで宰相となった。


 妹の祥陽も期待通りに第五皇子を生んだ。

 将来、天子の座に就くことは間違いない。

 こうして、宮中内外のゆるぎない権力を、袁家の姉弟は一手に握ることになった。


 そしてまた老婆の姿となった亜月も、母のごとく正妃の祥陽を支え、第五皇子を祖母のごとく慈しんだ。

 常に後宮に目を光らせ、正妃と第五皇子のためにならぬ厄介ごとの芽を見つけると、あらゆる策略を駆使して踏みつぶす。

 もちろん、開元への報告を怠ることもない。


 そのうちに、黒い着物を着て腰をかがめて歩く亜月の姿に、開元は彼女の本当の年齢を思い出せなくなっていた。








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