192 亜月の過去・その11



「あの妹は、おれのことなど敬うべき兄とは思っていない。

 おまえたちも知っているのだろう? 

 宮中であいつがおれのことを平然と、『太った豚』と呼んでいることを」


 動揺した顔色を読まれないようにと、男たちは平伏したままだ。

 開元はふんと鼻を鳴らす。


「すぐに激高する祥陽でも、お父上であればうまくなだめて操れただろうが。

 おれには無理だ。


 だがな、おれたちの母だという女の傍に十五年もいて、祥陽を妹のようにさえ思うと、亜月は言ったのだ。そうであれば、祥陽の気質も理解し、なだめ方も知っているのではないか。


 亜月の起用に反対するというのであれば、どうだ?

 おまえたちの誰か祥陽の傍近くに仕えて、祥陽の機嫌をとってみるか?

 その男根をちょん切って、宦官としていつでも宮中に送り込んでやろう」


 しかし、今度も男たちは顔を伏せ無言のままだ。

 返事がないことに怒りを爆発させた開元は、目の前の男を蹴り倒した。


「どいつもこいつも、口から出す言葉は『なりませぬ、なりませぬ』だけか。

 反吐が出るような忠臣面だ」


 そしてその目を、唯一顔を上げている亜月へと移す。


「亜月、小賢しいおまえのことだ。

 いまの状況は飲み込めたな。

 どうだ、宮中に上がって、正妃に仕えてみるか?」


「はい。すべて、開元さまのおっしゃられるようにいたします。

 なんでもお命じくださいませ」


「なかなかに言葉遣いもよく、礼儀作法も心得ているようではないか。

 たいしたもんだ。

 ここにいる男たちより、よほど肝が据わっている」


「お褒めの言葉、ありがとうございます。

 宮中に上がれば、奥さまにお仕えした時と変わらぬ心で、今度は、祥陽さまにお仕えしたく思います、開元さま」


 言い終わった亜月は、両手を前に差し出し床に頭をつけて、深く叩頭した。

 それはゆっくりと重々しく三度続く。

 奴婢とは思えないほどに落ち着き払った美しい所作だった。


 その横で、それなりの家に生まれ育ち、袁家の重臣として地位も富も欲しいままにしてきたであろう男たちが、命惜しさに見苦しく震えながら平伏している。


「袁家の重臣とは思えない、情けない男たちだ」

 聞えよがしに舌を打って、開元は男たちに向かって言う。

「ここでおれのすることは終わったな。では、屋敷に戻って……」


 お父上の葬儀の準備に取りかかると言おうとして、開元の背中を一筋の冷たい汗がつっと流れた。


――何かが変だ。

 袁家の一大事というのに、あまりにもことが平然と収まっていく――


 死をちらつかせて恐怖で人を支配する方法は、生まれながらに知っている。

 そして、知恵が回りにくい自分の気質も知っている。

 『太った豚』と妹の祥陽が自分のことを悪しざまに罵ることに、悔しいが、反論は出来ない。


 袁家のことも天下の政のことも、すべて父に任せて遊び惚けて育ったのだから、しかたがないと言えばしかたがない。


 居並んだ重臣たちが、開元に忠言できないぼんくらだったということもある。

 しかし、重臣たちが何を言おうと、彼は耳を貸さなかっただろう。


 ここに至って初めて、すべてがこの亜月という女の思い通りに運んだのではないかということに、開元は思い至った。

 

――この女は、いつかはこのような日が来ることを知っていて、母の言葉からおれの気質を読み、時間をかけて策略を練っていたのか。

 おれは、それにまんまと乗せられたのか?――


 言葉に出来ぬ彼の心中が、背中を流れた冷たい汗となった。







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