190 亜月の過去・その9



 蹴とばした女の血で汚れた自分のつま先を眺めていた開元だったが、聞き覚えのない女の声に顔を上げ振り向いた。


「女が、なぜにここにいる?」


 平伏した重臣の一人が答える。

「も、も、申し上げます。

 こ、こ、この女の名は亜月といい、十五年の間、お母上さまの……。

 いえ、そこで死んでいる女の傍を片時も離れることなく、お世話申し上げた女にございます」


 伝い落ちる汗を着物の袖で拭うために男が言葉を切ると、部屋の隅からにじり出てその姿を現した亜月という名の女は、再び言葉を挟んだ。


「そのお人を、死んでいる女などと呼んではなりません。

 まぎれもなく、開元さまのお母上さまにございます」


「ええい、黙らぬか、亜月。

 開元さまが、お母上さまのことで、いえ、その死んでいる女のことで……。

 訊きたいことでもあればと、部屋の隅に控えさせてやっておったのに。


 その死んだ女を、開元さまがお母上さまでないと言われるのであれば、もうおまえに用はない。


 その口を閉ざして下がっておれ。

 おまえもすぐに主人の後を追わせてやる。

 その首でも洗って、静かに待っているがいい」


 立ち上がった男は、女を部屋から引きずり出そうとした。

 しかし、女はその手を払い、開元をまっすぐに睨み据えて言った。


「わたくしは自分の命が惜しくて、開元さまに申し上げているのではありません。

 奥さまはこの十五年ずっとこのお屋敷から一歩も出ることなく、お子さまである開元さまと祥陽さまのことを案じられ、お二人のお幸せを神仏に祈って過ごされていました。


 わたしはそのお姿をいつもお傍で見ておりました。

 そのようなお母上さまのご葬儀もなさらずに、そのうえにお遺骸を屋敷とともに焼くなどと、人の道を外れた恥ずべき行いです」


「よさぬか、亜月。

 開元さまに向かって、畏れ多くも異論を唱えるとは。

 首を刎ねる前に、その口を裂いてやるから、覚悟せよ」


 まともな方法で部屋から追い出すのは無理だと思った男は、亜月の結った髪に手をかけて引っ張った。

 さすがの女もどんもりを打って倒れ込む。

 甲羅を下にして腹を見せた亀のように手足をばたつかせてもがく亜月を、開元は見下ろした。


「まあ、待て。

 なんとまあ、命知らずの面白い女ではないか。

 おまえたちのように、へいこらと、命惜しさに頭を下げるだけしか出来ぬものとは、大違いだ。

 気に入ったぞ。

 首を刎ねられる前の置き土産として、少し話を聞いてやろう。


 おい、亜月。

 ところで、おまえの歳は幾つだ?」


「二十五歳でございます」

 やっとの思いで座り直した亜月は、乱れた髪のまま答える。


「おれより、二つ年上か」


「はい、開元さまより二つ、祥陽さまより五つ年上だと、常々、奥さまより伺っておりました。

 そのせいでございましょうか。

 奥さまには、十五年の間、とても可愛がっていただきました」


「では、亜月、教えてくれ。

 この、おれの母だという女のむくろを、おまえはどうするべきだというのか?」


「袁家での葬儀が出来ないとおっしゃられるのであれば、わたくしに弔わせてくださいませ。

 ここで、簡素ながらも心を込めた葬儀を行いたいと思います。

 そしてその後、竹林に小さな墓を作り亡骸を埋めて、わたくしは喪に服し奥さまの御霊をお慰めいたします」


「その喪に服する期間は、いかほどか?」


「三年か、五年がよろしいかと存じます」





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