186 亜月の過去・その5
翌日、人買いの手によって、亜月は袁家に売られた。
その日から、竹林屋敷から一歩も外に出ることなく、奥さまに十五年仕えた。
奥さまはお優しい人だった。
会うことの叶わぬ娘の祥陽と亜月が重なったのだろう。
母親のような優しさで、読み書きと礼儀作法を教えてくれた。
亜月もまた、利発さをもって、奥さまの優しさに応えた。
だからといって、竹林屋敷での十五年は、苦労もなく夢のように楽しい日々だったといえば噓になる。
奥さまは正気と狂気の間を、行ったり来たりされていた。
狂人となった奥さまは手がつけられないほどに暴れて、人を傷つけまた自分も傷つけようとした。狂って暴れる奥さまをなだめようとして亜月は、何度も、爪を立てられ突き飛ばされた。時には、隠し持っていた先の尖ったもので、刺されたこともある。
目を離した隙に、ご自分の喉を突こうとしたことも何度か。
一日中、竹林の中をさまよっていたことも。
そうなられた時の奥さまは、手足を縛って、屋敷の中に設けられていた座敷牢に閉じ込めるしかなかった。そこで一か月か二か月を過ごされると、奥さまはまた元の優しい奥さまに戻られて、竹林屋敷につかのまの平安が戻る。
安陽のどこにあるのかもわからぬ、外界から隔てられた竹林屋敷。
そこに閉じ込められて狂人の世話を仕事とすれば、よほど心をしっかり持たないと、自分も向こうの世界に連れて行かれそうだった。
夜に目が覚めて、外の世界の人たちから自分の存在は忘れられていると考え始めると、その虚しさに胸を掻きむしり叫び出したくなる。
それは亜月一人に限ったことでない。
使用人仲間が一人去り二人去りして、新しい顔と入れ替わった。
初めの頃は、外での暮らしに戻っているのだろうと思った。
三年も経ったころ、彼らはこの屋敷から消えたが、同時にこの世からも消えたのだと理解した。
*****
竹林屋敷の暮らしも十五年目となった時。
美しく黒々としていた奥さまの御髪に白いものが混じり始め、外の世界を知らぬまま亜月は二十五歳となっていた。
座敷牢で過ごされていた奥さまが、突然、亡くなられた。
それも、袁家の当主であり青陵国の宰相でもあり、自分を死んだことにして、ここに閉じ込めた夫を道連れにして。
座敷牢の中の血だまりで、男と女の二つの体は折り重なって倒れていた。
滅多刺しされた男の体から飛び散った赤い血は、座敷牢の天井に届き壁を伝って流れていた。
無念と苦痛に醜く歪んだ男の顔の上に重なった奥さまの死に顔は、長年の復讐を遂げた安堵に微笑んでいるように見えた。
その後、父のあとを引き継いで、まだ若い開元が宰相となった。
開元は、亜月一人を残して、竹林屋敷の存在を知るもの全員の首を刎ねた。
のちに斬首宰相と怖れられるようになる、これが彼の初仕事だ。
生き残った亜月は後宮にあがり、正妃・祥陽の侍女となって、生まれたばかりの第五皇子の守り役となった。
すでにこの時から、妹・祥陽の心の中に、母と同じ病いが潜んでいることを開元は薄々感じていた。
母の看病に慣れている亜月を傍におけば、安心だ。
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